「好きなんだと思う、そのことが大事なんですよ」

岸部一徳

2008.09.25 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
役者の一人というより子分として何かを

大政は武家の出身であり、次郎長一家の軍師的存在だ。そして、次郎長に絶対的な忠誠を尽くす。

「僕は“映画監督と俳優”という関係以前に、もともと津川雅彦という俳優さんとすでに出会っていて。先輩だからということを抜きにしても、どこかで男の魅力みたいなものを感じている。そんな人が監督をやるわけですよ。ただ誘われて出るだけでなく、この監督のために何かしたいという気持ちが生まれてくるんですよね。そのことと、大政の次郎長一家に対する姿勢は…どこか近いところがある気がします」

劇中では、すでに大政は次郎長の子分だ。背景は描かれない。女郎となった恋人に会いに行く子分に身請け料をポンと出す。子分と一緒になって憤り、泣いてくれる。きわめていいボスだ。

「津川さんに会った瞬間に何か感じるものがあったり、60歳過ぎてから初めて監督をする(前作『寝ずの番』。一徳さんも出演)ときのプレッシャーを想像したり、マキノの名前を背負って大失敗したらどうするんだろうと思ったり。言葉で確認したことはないんですけど、僕はきっと津川さんのために、マキノ組のために自分が何かを“したい”と思ってるんじゃないかな」

この意識が、子分役ににじみ出ているところはあるのだろう。

「僕もいろいろな映画に出演しますが、津川さんとやるときはちょっと違うニュアンスがありますねえ。次郎長一家の大政という役…というか、そのポジションを守り、監督の現場に付き合うような気持ち。元をたどるとね、僕は音楽をやっているころ、ベースを弾いていたんですが、真ん中にジュリーがいて、横に僕がいる。そのことと繋がっているような感じがしますね。津川さんとご一緒して、そうやって考え直してみると、僕はとんでもないところに展開したわけじゃなくて、知らず知らずのうちに若いときからそういう場所にいたんだなあって」

音楽で限界に気づき、芝居で妙な感じになる

「早く家を出たい、って若者は思いますよね。あれと同じように僕は京都を出たかったんです。エレキブームみたいなものがあって、みんなが音楽をやり始めた時代でした。僕もアマチュアでやり始めて。東京のことは全然知らないんだけど、東京へ行ったら僕らが一番になるんだって、なんの根拠もなく信じていましたね」

そして東京で、日本で一番になった。

ザ・タイガースは沢田研二というスターを擁して、グループサウンズの頂点を極めたが、サリーこと岸部一徳はリーダーであった。そもそも前身となる「サリーとプレイボーイズ」を結成したのも彼。ザ・タイガースとしてデビューするのは67年、20歳のとき。

解散するのは71年、24歳のとき。同じ年に沢田研二、萩原健一、大野克夫、井上堯之らと新たにPYGというバンドを結成し、コアなハードロックを標榜。萩原が脱退し、その後は井上堯之バンドとして、沢田研二とのコラボやドラマの音楽などを担当する。『太陽にほえろ』のベースも彼である。

「人気が出て、どこに行ってもキャーキャー言われるなかにいることが、特別だと思わなくなるんですよね。でもそうやって毎日同じようなことを繰り返しているからこそ、次は違う展開を求めるんです。人気はもうある。今の現実よりも、そこから先の方が面白い展開になるんじゃないかと思える。それは、結果的には錯覚なんですよ。だけど、やっぱりそこに行きたくなる。行って、挫折というものを感じるとかね。そうやって初めて、メンバーの考え方ややりたいことが違ってきているということに気づくんです」

評価があり仕事もあり収入もあった。だが岸部一徳はバンドを脱退する。75年、28歳のときだ。さっき出た音楽性の違いのせい、などではない。

「自分でわかったんです。それまで“自分が何か”なんて考えたことがなかった。“こういうことをやりたい”ってやってきた結果、知らないうちに“自分に何があるのか”ということを問われるようなところへ来てしまったわけです。べつに問いに答えなくてもやっていくことはできました。そこそこの経験があったから、才能がありそうに見せることもできるだろうと」

二択の材料は「才能のあり/なし」ではなく「才能があるふりをするか/やめてしまうか」なのであった。

「あそこでやめるということで、自分を一度ゼロに戻すことができたわけです。結果的によかったなあと思いますよ」

バンドをやめた年に、バンドが音楽を担当していたドラマに出演する。本格的に俳優として活動し始めたのは79年から。女優・樹木希林の事務所に「面接を受けて」参加した。音楽的経験は、自分の才能を見極められるぐらいあったが、俳優についてはまさに “ゼロ”。

「なんとなくやっていきました。僕には観る側に回ったときに好きか嫌いかの判断しかなくて。自分のなかにある“こういうのがいいんじゃないかな”というのを基準にするしかない。外から見たときに間違っていると言われてもしょうがない。自分はそう思っているわけですから。自分の感じるところを、正しいのだと思うしかないんですね。それが一致する監督や一致する俳優さんに出会うと“これでよかったんだ”と。それを確認してきたわけです」

42歳のとき、小栗康平監督の『死の棘』に出演し「とてもいいな」と思えた。ふとした自信も芽生えたが「それは小栗監督と僕のことで、すべての監督と合うというわけではないんです」。

30代は完全に手探りで、しかも仕事のない時期に結婚し、長女をもうけていたけれど、怖くはなかった。むしろ面白がって過ごしていたらしい。

「仕事があまりなくても、それはそれで面白い。僕は幸せだったと思うんですよ。若い時に人気者になることができたことが。だから、その後は人気者になりたいと思ったことがないんです。俳優の仕事がよくわからなくてはっきりしない状況でしたけど、それが意外と平気なんですね。今はおかげさまでインタビューを受けるような立場になっていますが、いつかはまたああいうふうに戻るときが来る気がするんです。“立派な俳優の僕”で人生が終るのは、妙な感じがするんですよね」

立派なプロにはなれないと一徳さんは言う。過去の作品を観ても“未熟だなあ”なんて思わない。むしろ、ちょっと無鉄砲な輝きに感心するのである。

「なかなかうまく言えないんですが、たとえば僕が『名優ですね』と言われたら、変だなと思うでしょ(笑)。名優だとか言われて、僕自身が“そうなってきているのかも”と思い始めてしまうと、取り返しのつかない自分になるような気がするんですよ。“それは妙だ”ということに、今、気づけてよかったですよ。かつて、自分が歳をとるとどうなっていくんだろうって想像したこともありましたけど、すでに想像もしなかった年代に入ってしまいました。“60歳らしく落ち着いて”とか、“この業界で生きている人間らしく”って、フッと考えるんですが、そういうものが、どんどん自分のなかでピタッといかなくなる。年齢にふさわしいあり方と自分の思っていることのバランスが悪いんでしょうねえ(笑)」

確固たる手法や地盤を築いたわけではないのだ。手探りしていた30代と変わらないまま。実際には経験も積んだし、いろんな糧も得てきたけれど、そのままでいるほうが「自分」であると思えたのではないだろうか。

「立派な監督だとか、いい役くれるとかあんまり関係ないんです。結局のところ僕がその監督のことを好きかどうか。好きなんだと思う、そのことがいちばん大事なんですよ、たぶん」

1947年京都市生まれ。67年、ザ・タイガースでデビュー。ベーシストでありリーダーであった。当時の名は岸部修三。71年、ザ・タイガースの解散後、沢田研二、元ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、元ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之らとPYGを結成。その後、井上堯之バンドとなり、75年に脱退、音楽活動を停止する。同じ年、ドラマ『悪魔のようなあいつ』に出演。79年に岸部一徳として俳優活動を本格化。『時をかける少女』(83年)、『お葬式』(84年)、『その男、凶暴につき』(89年)などに出演、90年には『死の棘』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞する。『次郎長三国志』は、前作の『寝ずの番』に続いてのマキノ雅彦作品。『角川シネマ新宿』『シネカノン有楽町2丁目』『渋谷アミューズCQN』ほかで公開中。次回作の『旭山動物園物語~ペンギンが空をとぶ~』(09年2月公開)にも出演。『GSワンダーランド』は11月15日、『渋谷シネマGAGA!』『シネ・リーブル池袋』『シネマート新宿』ほか全国ロードショー

■編集後記

俳優の世界においては、キャリア30年以上でもカッチリと型にはまることを厭う一徳さんであるが、音楽では「妙な感じ」にはならなかった。ひととおり、才能の限界までは突き進んだのだ。「グループでやっていたから。タイガースでいえば圧倒的にみんなジュリーの方に集中しているので、横にいる僕には気楽さみたいなものがありました。でありながら人気者っぽい経験もできた」。ちなみに日本屈指のベーシストという噂を問いただしてみると、「何かの間違いです」と言って笑うのであった。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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