「大切なものが見つかるのなら10年くらい棒に振ってもいい」

堤 幸彦

2006.02.16 THU

ロングインタビュー


堤 幸彦
いろんなお座敷に対応して芸をみせるのが、大事

この手の作品では、観るものの恐怖心をどう煽るかがポイントだ。考えた末の解答は…こだわれるものにはすべてこだわるということだった。なかでも音には徹底的にこだわった、という。

「今までも音にはこだわってはきたんですが、今回は“究極まで”といいますか。もう撮影の段階から映画館のスピーカーシステムまで計算して撮ってましたから。どこから聞こえるのか、どの方角なのか、上なのか下なのかということを計算しながらやってました。音も含めて立体的に構成したので、ホントに“音像一体”。狙い通り(笑)」

『ケイゾク』や『トリック』では“堤マジック”と呼ばれるスタイリッシュな映像が話題となった。その後、ドラマ版の『世界の中心で、愛をさけぶ』などで正統派のラブストーリーに挑戦。役者のお芝居をじっくり撮る、という新たな一面を披露した。そして『サイレン』では音――堤 幸彦は常に新しいものに挑戦している印象を受ける。

「やっぱりね、芸者は芸を変えていかないと飽きられちゃいますから(笑)。いろんなお座敷に対応して芸をやらないとダメじゃないですか。そういう意味では最近は方向の異なる作品の依頼がたくさん来るので、芸の腕を常に磨いておかないといけない。まっ、それはそれで楽しいですよ」

TVドラマの演出家や映画監督として名をなしても、絶えず新しいことに挑戦する姿勢。実はその原点は“無鉄砲だった”という20代のころにあった。

「あのころは苦しさ10%、楽しさ80%っていう感じで“なんとかなるさ”ってなものだった。成功したいなんてね、全然思ってなかったし(笑)。実はね、今でも成功してると思ってないんですよ。成功してると思ったら、こんなにあくせく撮らないから。この業界で自由に泳げるようになったのが40代に入ってからで、相当遅咲きの人生じゃないですか。20代で何も残せなかった分、人の4倍くらいやらないと取り戻せないと思ってるくらいなんですよ」

“やらなきゃ”の源は、屈託ないおばあちゃんの笑顔

堤 幸彦の20代。それは大学中退から始まった。その後、専門学校に入学し、卒業後にテレビ番組制作会社に入社する。そこから業界人としての第一歩が幕を開けた、のだが…。

「『ぎんざNOW!』っていう伝説の番組のADから始まったんですが、それはもうホントに地獄を這いずるような3年間でね。自分は文科系人間なのに現場はウワ~って言いながら走り回るようなところだった。そんなね、瞬発力を競うような仕事には自分は向いてないんじゃないかと」

日々、思い悩んでいた。そんなとき、会社から命じられた新たな仕事がTBSの『街かどテレビ11:00』。後に“コマーシャル、キュー”のフレーズで大木凡人がブレイクしたお昼の番組だ。

「これが僕のディレクターデビューなんですよ。ただね、僕は音楽好きなんだけど、来た仕事が演歌、カラオケ番組でしょ。そりゃないだろうと思って、本気で辞めてしまおう、逃げてしまおうって思ったんです。でも、ご飯は食べていかなきゃいけない。ちょっとだけ付き合うかと思って続けてたら、おばあちゃんたちがね、屈託なく笑って喜んでいるワケですよ。その顔を見てたらこれはやっぱりやらなきゃなぁ~って。ホントに真っ当に思ったんです。今思えば転機も転機。もう最大の転機といっても過言ではないですね」

それがちょうど24~25歳のとき。人を喜ばせたり、笑わせて拍手をもらうのが自分の道だと気づいた。気づけば、道が開ける。次のターニングポイントは30歳に手が届こうかというころだった。あの秋元 康とともに『SOLDOUT』という会社を作ったのだ。

「秋元さんと出会ったのはね、実は業界入ってすぐ。僕のやってた番組で彼は放送作家やってたんだけど23、24歳で出会って、26歳くらいのときにはそのうちに一緒に会社をやろうって言い始めてた。2人ともね、変なふうに面白がるっていうか、変な着眼点が似てたワケ。要は真っ当なバラエティの作り方にお互い満足してなかったんですよ。もうね、ウマが合うっていうのは、このことを言うんだなと。それで85年くらいに会社を作ったんです」

そんな二人の結晶ともいえる番組。それが『コラーッ! とんねるず』だった。日曜夕方の放送時間帯にもかかわらずシュールなコントを連発、なかでも豊田商事の永野会長刺殺事件のパロディコントなどは、今のTV事情では絶対オンエアはできないだろう。こうしたシュールなギャグが堤の作品の中では形を変えて生きている。たとえばそれは『ケイゾク/映画』の中で中谷美紀が缶詰の空気を吸うシーン。これは“コラとん”で木梨憲武が演じた“危ないアイドルファン”のコントが原型なのだ。

「サイン会に並んでる憲武が、サインもらう代わりに“息ください”って言うんだけど(笑)。あの当時の気持ちみたいなものは脈々と受け継がれてますね。今はお互い別の会社にいますけど、ときどき秋元さんの作品を見ても、やっぱり変わってない。たまにコント番組やって確認しあったりもするし。結局、『トリック』にしろ『サイレン』にしろ26~30歳で作ったものを延々と再生産してるというか。この業界では三つ子の魂っていうよりも20代後半の魂がずっ~と生きてる」

さらに堤の言葉はこう続いた。「25~30歳までの間に出会った人というのは、一生を律するんじゃないかな」。

重要なのは棒の振り方加減いかに地を這うか、だ

かつて日本テレビで『モーニングサラダ』という番組が放送されていた。堤は、この番組で出会った櫨山裕子プロデューサーと『金田一少年の事件簿』を作ることになる。ちょうど40歳のときだ。華々しい成功を収めたこの作品がなければ『ケイゾク』や『トリック』などは生まれてなかっただろう。

「『金田一』をやる前と後では、仕事に対するスタンスが本当に変わった。人にいちいち説明しなくていいワケですよ。“ああ、あの作品ですね”ってわかってもらえる名刺を持てたのはホントに楽でしたね。逆に“僕はこんな作品やってました”って説明しているうちはまだまだ認められてないってことでしょ。だからもし、20代の人で、作品を作ったり、自分で何か始めたいと思う人は、説明しなくてもいいことを獲得することが大事ですよ」

潔くなかったから20代の自分は、“辞めたい、辞めたい”と思いながら続けていた。そんななかでも“これだ”と思えるものが獲得できたから今の自分がある、と堤は言う。

「最近よく思うんだけど、20代の人ならね、何年間かは棒に振ってもいいんじゃないかと。今の時代なら下手すれば35~36歳くらいまでは棒に振ってもいいと思う。ただ、棒の振り方加減というか、地の這い方というかね、そこが非常に重要で、人それぞれなんだけど…人に譲れないものを何かひとつ、見つけることですよ。それはパチンコでもいいし、マンガでもいい。音楽でも英会話でもいいんだけど、“俺しかこれできないんだよ”っていうことが1個みつかればね、10年くらい棒に振ったって全然いいんじゃないかな」

“それ”を見つけた堤は、だから50歳になった今でも“作り続けて”いる。

「何かを目指してっていうことよりも、やっぱりプロの芸者としてはちゃんとやるべきことをやるべきだっていう。何よりも、20代のあのころに面白いと思ったことはやっぱり追求したい。“街の公園のパイプ椅子に座ったおばあちゃんが喜ぶ顔を見たい”っていうのは僕の中ではずっとありますね」

1955年11月3日、愛知県生まれ。数々のテレビドラマや映画、ビデオクリップ、CM…とあらゆる映像分野で活躍する一方、舞台や音楽関係の仕事も数多く手掛ける。独自の映像世界“堤ワールド”をひっさげ映像作家として多方面で活躍中だ。主なTVドラマ代表作に『金田一少年の事件簿』(日本テレビ系)、『ケイゾク』『池袋ウエストゲートパーク』『世界の中心で、愛をさけぶ』(以上、TBS系)、『トリック』(テレビ朝日系)が、主な映画代表作に『さよならニッポン!』(95年)、『溺れる魚』(01年)、『恋愛冩眞』(03)がある。現在、市川由衣主演の映画『サイレン』が東宝系にて全国公開中。渡辺謙主演『明日の記憶』、人気シリーズ『トリック 劇場版2』の公開が控えている。

■編集後記

手掛けたTV番組のほとんどがバラエティ。まさに下積み時代だった。某人気音楽番組の中継ディレクターをやったこともある。なかでも初回から関わっていたのが『街かどテレビ11:00』である。「イトーヨーカドーに朝4時に行って、大木凡人に銀色のインカムさせて“コマーシャル、キュー”って言ってもらってた」。『トリック』に大木凡人がゲスト出演したことがあるのは、このときの縁によるもの。だが、この生活も肝臓を壊しリタイア。2年半で幕を閉じることになる。

堤 幸彦

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