「無駄に生きてなかったなって、実感してる」

久保田利伸

2006.03.16 THU

ロングインタビュー


久保田利伸
日本人の和製ソウルはニューヨークでも通じる

「今、思えばそうですよね。ニューヨークに渡るのって、時間にしたら実質13時間ぐらいしかない。でも、ニューヨークに渡って演りたいって思いは、何年も前からあったんです。で、何も考えずに行くぞ! って踏み切った時の勇気と勢い、その瞬間は後から考えると自分でも美しいと思います」

93年、31歳の年。久保田利伸は日本での数々の栄光とキャリアを反古にして、アメリカでの音楽活動を開始した。全米デビューはその2年後、道のりは平坦とはいえなかった。だが、この時と同じぐらいの困難を、彼は85年のデビュー直前にも経験していた。

「僕のデビューする前後は、ソウル/R&B色の濃い音楽を出すのは難しかったんです。音楽業界の人たちも、それ系の音楽をメジャーな形で売っていこうってイメージもないし、はっきりした前例もない。和田アキ子さんとか、キング・トーンズとか、歌謡曲としてのR&Bっていうのはありましたが」

名曲「グッドナイト・ベイビー」で、ビルボードR&Bチャートの48位を飾ったキング・トーンズのように、R&Bを歌謡曲に取り込むことは60年代から多々あった。が、久保田利伸のように、マニアをもうならせる濃いソウル/R&Bに、エンタテインメント性をのせ、それをさらにヒット曲にまで押し上げたアーティストは数少ない。

「日本人のソウルも通用するはずですよ。僕もアメリカでやってて、手応えは感じるし。実際に04年の後半ぐらいなんですが、アメリカの南部中心に、黒人の人口が多いゲットー(スラム街)を、アンジー・ストーンとアンソニー・ハミルトンと一緒に廻ってたんです。客席はすべて黒人だったんですが、黄色い肌の僕がR&B歌っても、何の壁もなく演れましたから。でも、お客さんとの一体感は、僕の時と彼らとでは違うんですよ。小さいころに同じ思いで教会に行って、ゴスペル歌って、ゲットー地区で人種差別されながら育った黒人にしか分からない思いを、お客さん側とシェアしてる。そういう経験は僕にはないし、キング・トーンズにもないですから(笑)。その辺は入り込めない世界だし、無理矢理入り込むものじゃない。でも、僕は何年も時間をかけて、もっとその世界に入り込んでいかないといけないんでしょうね」

13年以上、アメリカを拠点に活動してきた久保田利伸だからこそ言える重い言葉。アメリカの老舗黒人音楽専門誌『VIBE』で、“黒人かぶれのワナビーズ(外見をまねて憧れる人々)”とこき下ろされる渋谷のB系の若者のような表層的解釈とは全く違う。

「最初のとっかかりは音楽だったり、ファッションだったりでいいと思います。ある意味、僕もそうでしたから。そこから自分と黒人文化の違いを学んだり、逆に共通する部分も分かっていって、その先に真に理解し合える日が来ればいいと思うんです」

アフロとサーファーカット交互にしてました(笑)

アマチュア時代、久保田利伸はアフロヘアだった。

「アフロだけじゃなく、サーファーカットも交互にしてました(笑)。それが今の僕の音楽につながってるかもしれませんね(笑)。だからバラエティに富んだ曲が作れるのかも」

80年代前半、サーフィンブームの全盛期。そんななか、アフロにするチャレンジャーなんて、少数派であろう。

「いや、少なくとも3人いました(笑)。 デビュー前、よく渋谷のディスコに遊びに行ってたんですが、そのときに僕と同じアフロにしてるデカい奴がいるなぁと思ったら、ブラザー・トムさんだった(笑)。もう一人は、林家ペーさん(笑)」

最初は表層的にアフロを取り入れたが、彼とその他大勢の黒人かぶれとの違いは、彼が黒人文化や黒人音楽のルーツを深く掘り下げている点にある。

「大学の時に経済学部を選んだんですが、そのなかにゼミで経済とまったく関係ない、アフリカ研究会っていうのがあったんです。なんでそこを選んだかっていうと、自分の好きな音楽のルーツを探ろうっていう。で、入ったら僕と僕の友達の2人だけ(笑)。ファッションや音のカッコ良さと同時に、そういうことをそこで学べるチャンスがあったんで、それはありがたかったですね。僕はアフリカの音楽を研究してたんですが、その友達はアフリカの割礼について研究してました(笑)」

場所が変わっても自分らしさは変わらない

彼の黒人文化や黒人音楽に対する熱意は本物だった。その熱意は、結果としてソウル/R&B歌手としての久保田利伸を生み出し、さらにその熱意は、彼をアメリカにまで渡らせた。

「根がマニアックなんで、とことん追求しないと気がすまないんです。このまま日本にいても、僕が求める本物のソウルは掴めないんじゃないかって、心配ばかりしていた。掴めないまま音楽を演り続けるのは、自分に嘘をついていることになる。だから勇気と勢いだけでニューヨークに渡ったんです」

そして音楽活動の半分をニューヨークで過ごし、日本との違いをリアルに感じてきた。

「ニューヨークって、全世界からギトギトの野望を持った人たちが集まってくるので、独特のテンションの高さがあるんです。だからどこかピリピリしてるのかもしれないですね。文化が混ざり合うのがニューヨークの良いとこって言われてますが、絶対に混ざり合ってないんですよ。遊ぶ、騒ぐっていうレベルが日本よりもはるかに極端なのは、そういうピリピリしたものの反動からくるのかもしれないですね」

だが、喧噪の中の孤独に耐えきれない者も大勢いるのでは?

「ニューヨークの半分の人間がそうだと思いますよ。ニューヨークって、街に負けないテンションの高さと、自分なりにビジュアライズできるスタイルがしっかり決まってないと、つぶされてしまう街なんです。テンションの高さで言えば、ニューヨークを100とすると、東京は30ぐらい。個性的な人種の割合で言えば、100:10…いや、東京は1かもしれない。それほど刺激的なだけにつぶされる人も多いんです。僕の場合は、音楽が目的の真ん中にあって、音楽を通していろんな人と知り合って、通じ合い、つながることができた。それで温かい気持ちになり、心が充実していったんです。心が充実すると、いろんな悪いものも良いものも見えてくる。そのなかから良いものを選択していけば、さらに良いものが見えてくる。そんなことを10年間、向こうで考えながらやってきました。でも、ニューヨークに行かなくても、今回のアルバムを東京で作った時もそうですが、自分らしくいられれば、場所は関係ないですから」

聴く場所も聴き手も選ばず、表層的なトレンドにも縛られない―最新作『FOR REAL?』は、彼ならではのソウルフルな大人の音楽作法に則った逸品。彼のミュージシャン・シップの高さを饒舌なまでに物語る。極上のメロウネスを擁したバラードから、頭をパ~にさせるファンキー・チューンまで、そのどれもが一点の曇りもない。

「以前より迷いはなかったですね。思い悩むことは、これからも続くんだからしょうがないっていう開き直りもあるかも。でも、どの曲にも自分なりの人間哲学を何か詰め込んでいる感じがありますね。全体的に人間としての温度があるような。僕なりの温度と、優しさと、温かさは、以前よりは出てると思います。今回は、17~18年振りにすべて日本でレコーディングしたんですが、ホントに楽しかったです。日本、ニューヨークと場所を変えて、躊躇しないで音楽やってきて、それで時には困難な時も、失敗もあったし、うれしかった部分もたくさんあった。でも、今回のアルバムを作り終わって、無駄に生きてなかったなって、はっきり言えますね。40そこそこの野郎の言う言葉じゃないんですが(笑)」

いや、そう言い切れる人間になりたいと、誰もが思ってるはずです。

85年「失意のダウンタウン」でデビュー。88年のアルバム『Such A Funky Thang!』で初のミリオンセラー。日本にはかつてなかった「FUNKY」という概念を知らしめ定着させることになった。国内で順調にリリース&セールスを見せながらも、93年ニューヨークへ移住。苦難を乗り越え95年、TOSHI KUBOTA名義でシングル「FUNK IT UP」をリリース。全米デビューを果たす。翌年、「LA・LA・LA LOVE SONG」が200万枚のセールス、04年、3枚めのUSアルバム『TIME TO SHARE』をリリースし、人気音楽番組『SOUL TRAIN』にも出演した。そんな久保田が久々に東京をベースに制作したアルバム『FOR REAL?』をリリース。05年発売の全シングル収録、ホットにしてキャッチーな1枚だ。5月より3年ぶりのツアー始動。詳細はオフィシャルサイトにて。

■編集後記

デビュー3年目、3枚目のアルバム『Such A Funky Thang!』で初の海外レコーディング。25歳ぎりぎりだった。デビュー以来、バリバリと働き続けてきたごほうびは、90年末の長期休暇。このときにニューヨークへと渡る。むくむくと“世界”への意識が芽生えていくのだった。ニューヨークには野望をもった人間が世界中から集まってくる。その張り詰めた雰囲気が、街をギラギラにする。久保田自身が、そうしたギラギラに取り付かれていたのがこのころだった。

久保田利伸

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