「失敗してからが、本当の力」

内藤剛志

2006.04.20 THU

ロングインタビュー


内藤剛志
俳優とはどういうものか身をもって知ったこと

そもそも『闇打つ心臓』とは1982年の作品だ。気鋭の自主映画作家・長崎俊一が、親友であり自作の看板俳優でもあった内藤剛志と、室井 滋で撮った8ミリ映画である。今回の作品ではこの82年版、新たに撮影された現在のドラマパート、ドラマのメイキングパート、3つの素材が絡み合う。「この映画は、リメイクということについての映画だと思います。長崎はリメイクの話が来たとき、何も考えずに作り始めることは決してない。“なぜだ?”って絶対言うと思うんです。彼と30年にわたって付き合ってますけど、大きな理由はそういう真摯な態度。原理原則に戻って物を考える姿勢が好きだから。僕は長崎が乗った時点でお話をいただきました。当然そこまでには彼の中でモチベーションを見つける作業は完了していたはずだから」 監督が何を目指して作品に臨むかを、決して聞かないという。

「それを考えることが、演じることだと思ってるから。たとえば“今回の作品っていったい何だろう”って思いながらかかわることが僕の仕事のような気がするんです。映画に限らず、ドラマでもTVでも」

作品は仕事目線で観ることも大事だが、客観的に観ることも大切だという。今回は若き日の自身の映像を観た…。

「“すごく俺に似てる俳優が出てる”って思うんですね。対象への接し方とか“あ…俺やん!”ぐらいの感じ方。俳優って不思議なもので“資質”は大きく変わらない気がします。もしかしたら人間の資質を使ってする仕事なのかな。技術は稽古で伸ばせると思うんですが、映る空気は、なかなか自分では変えられないと思うんです」

技術というのは滑舌や動きなどのこと。さらには“らしさ”、パイロットや医師やお父さんのように見せるための力のことである。ただ、これを備えた俳優ならば誰でもいいわけではない。そこから先が“資質”ではないか、と。

「“あの人でこの役を見たい”というのがキャスティングということだと思うんです。たとえばこの映画でいうと、主人公のリンゴォを内藤が演ると、こうなる。佐野史郎だとこんな感じで、竹中直人だとこういうふうだと。ある程度、想像できますよね。これは佐野の技術がどうこうではなく、いわゆる“あの佐野史郎の感じ”が観たいってことじゃないかな。その“資質”はみんなそれぞれに持ってて、あんまり変わらない部分だと思います」

資質はなかなか言葉にならないものだが、約30年俳優を続けてきて、振り返ってみると、あちこちに自分らしさの痕跡みたいなものは残っている。

「ザラッとしたものを残しておきたいんです。あるシーン全部を気持ちよくやるのがイヤなんですよ。普通は乗り越えるために全部気持ちよくするか、変えてしまう。たとえば技術のことだけでいうと、芝居のときメガネを置いた位置がすごくイヤだとします。手元に引き寄せたらいいんだけど、“何かイヤな位置やなあ”って思いながらそのままにしておく。他の失敗しそうな部分、たとえば“○○してた”っていう言いにくいセリフを“○○していた”に変えたりして、保険をかけておくんです。そうでない部分は置いておく。 するとシーンの中でザラッとする場所が必ず来る。そうやってやるほうが、僕は闘争的にもなるしクリエイティブにもなれる気がしてるんです」

気づいたのは30歳過ぎてから。振り返って自分の行動パターンがなんとなく見えてきたという。

「人生においてもスーッと流れていき続けるよりは、流れの中で自分にストップをかけてポンと跳ぶみたいなところはありますね。それを短い範囲でいうと1年だったり、1日だったり、ワンシーンということになるのかな」

結局変わっていないたぶん気づいただけ

高校卒業後、ミュージシャンを志して上京するも断念。映画は、ふたつ目にあった道だった。日大芸術学部に入学して、長崎俊一監督と出会う。1年生の4月に早くも第1作クランク・イン。監督・長崎俊一、俳優・内藤剛志は自主映画の世界で、顔となっていく。

“ザラッ”は、このころ“キレる”という形で内藤史に姿を表す。

「やっぱりここでパーンて跳ばなアカンときが来るんですよね。それが理屈や理論ではないから、こわいんですよね。自分でそういうふうに誘導している節もある。形は反抗ですけど、心は純粋なんですよ(笑)。だいたいダメって言われるのは“やれ”っていう意味ですからね」

演技の幅を広げようと入った劇団の養成所で、禁止されている公演を勝手に打つ。自主映画をやりながら、別の劇団を立ち上げてグチャグチャの日々を送り、大学は3年でドロップアウト。

所属する場所がなくなったとき、内藤剛志は、10年俳優をやろうと思った。

「自分がダメだとわかっているから、栓をしないと、漏れまくるんですよ。一方で、10年って長いから、今回失敗しても、“まだある!”って思えるんです。期限の中ならリセットが効く。つねに結果を急いでいたら、人間関係とかもバラバラになる。いまはダメでも30歳までにまた会えばいいやっていう、執行猶予みたいなもので…」

理屈はあとづけだ。当時は感覚的に10年、と感じていた。30代半ばのころ、ある歌舞伎俳優の言葉に出合って、思いを再確認することになる。ある別の俳優が舞台の最中にかつらを飛ばしてしまったエピソードを挙げた。

「彼が言ったのは“そこからどう立ち直るかが俳優の力”。これが俺のモチベーションになりましたね。失敗しないうちはわからないんですよ。大失敗してダメになって、どう戻ってくるか。僕もこんなふうにしゃべってますけど、アカンときはウチ帰って布団かぶって寝ますよ。でもいつか起きてカメラの前に立たなアカンわけです」

長崎作品での仕事で認知され、徐々に商業映画やドラマからも声がかかり始めた。25歳で、大森一樹監督の『ヒポクラテスたち』に出演。これをきっかけにこの年、長崎俊一初の35ミリ劇場用映画『九月の冗談クラブバンド』が始動する。が、撮影中の大事故で監督は重傷を負い、療養生活を余儀なくされる。撮影は中断し借金が残った。

「毎週バイクで病院に通ってて。“映画どうする?”って聞いたら“やりたい”と。“お、いいんじゃない、やろう”って。それをどう実現していくかは俺の仕事だと思ってたんです。長崎の入院が1年ぐらいかかると聞いていたので、なるべくお金を稼げる俳優でいたかった。それぐらいしかできなかったから。ロマンポルノやってたのもその時期かな。だいたい26歳ぐらい。ただね、悲しかったりつらかったりということはあんまり覚えてないんですよね。結構楽しかった」

長崎監督が退院後、『九月の冗談クラブバンド』を完成させた。それに続く作品の撮影中、空気が変わった。

「ここら辺からプロになっていったのかもしれない。撮影中、長崎の現場からドラマのオーディションに1日だけ行ったんですよ。“俺は長崎組なんだから、オーディションなんてウゼえよ”って思ってた。でも事務所に言われて行って、ものすごく感じ悪く棒読みでやって。でも受かってしまった。インディペンデントで活動しようと思いながら、世間から声をかけていただきつつあって、それをどう整理するのかわからなかったんです。結果的には、30歳ぐらいで、メジャーに冒険しようと思うんですけどね。明らかに空気が変わったのは、このとき。閉じたところでやってたのが、パタンと窓が開いて、知らない顔がおいでおいでと手招きしていた、というかね。切り替えたんではなくて、二股かけたんですね(笑)」

撮影していた作品は8ミリ版の『闇打つ心臓』だった。

1955年5月27日、大阪府生まれ。日大芸術学部で長崎俊一監督と出会い、俳優の道を歩み始める。8ミリデビュー作は大学1年のときの『獏をぶっ殺せ』。中退後の80年、大森一樹監督『ヒポクラテスたち』で劇場映画デビュー。82年、長崎俊一監督の35mm劇場映画デビュー作『九月の冗談クラブバンド』ではプロデューサーも担当した。その後、CM、映画などに幅広く活躍。世間的に認知されるきっかけは94年のドラマ「家なき子」。1995年1月~2001年1月まで、25クール連続でドラマ28作品に出演する。最新作『闇打つ心臓』に関しては本文およびコラム参照。

■編集後記

大学は3年通って中退。在学中に入った文学座の養成所からも離れる。学生の身分を失ったため「10年はやろう」と自分に渇を入れ、ますます映画制作にのめりこむことになる。23歳のときにはPFF(ぴあフィルムフェスティバル)で長崎作品『ユキがロックを棄てた夏』が上映され、当時、自主映画界で活躍していた早大シネ研の室井 滋や山川直人らと親交を深め、大学の後輩である石井聰互のデビュー作『高校大パニック』に協力したりなどしていた。

内藤剛志

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト