「面白そうなところには、ちゃんと寄り道を」

東儀秀樹

2006.05.25 THU

ロングインタビュー


東儀秀樹
「結成にいたるまで」に見え隠れする生き方

「仕事でも趣味でも“思った”時点でもう“できる”ことなんです。そう信じちゃえるので、恐れは何もないんですね。失敗もするけれども、できている自分を想像するのが得意なんです。だから簡単に一歩が踏み出せる」

踏み出した一歩は中国。いきなり中国最高峰といわれる上海民族楽団でユニットメンバーのオーディション。

「縁ですね。考えてるだけじゃなく、僕から動かなきゃ物事は進まない。僕ね、いろんなところで自分の思いを語ってしまってるんです。自覚はないんですが(笑)。“これがやりたい”“こうでなければならないんだ!”って語っていると、いろんな人が口コミでつなげてくれるんです。そういうことをよく感じます。BAOに関しても、その結果ある人が上海民族楽団の団長さんを紹介してくれた。自分から発信し続けていると、実は意外と簡単に道は見えてきたりしますね」

東儀秀樹+BAOのDVDを観ると、雅楽の名門の人と民族楽器のエリートがやってるのに、とても軽いのである。

「彼らは確かにものすごい超絶技巧をもっています。それをもってして弾く簡単なフレーズがぼくはほしかった。民族楽器だとか日本と中国の伝統文化の融合とかいう理屈の部分は、あとからでも知ることはできる。そんなこと抜きに、音楽って“楽しい”ってところからスタートするものだから。このユニットでは、そういうすごく原始的なところを大事にしてるんですよ」

彼は雅楽器をあるがままに使う。現代の音楽に取り入れる際も、ムリヤリ現代の型にハメることなく、篳篥や笙の音色に合ったメロディーを生み出す。それは中国民族楽器に関しても同じだ。

「僕はそもそも雅楽以外の音楽をきちんと勉強したことがないので、自分の感覚だけでやっているようなもの。でもそれを信じているんです。たとえば二胡という楽器を耳にしたときに“この音はあのフレーズをこういうふうに演奏したら気持ちがいいだろうな”って、自分が思ったことをすごく大事にしてるんですよ。二胡のその調べが、誰が聴いても気持ちがよくて自然に感じられるならば、間違いではないと信じているんです。ことさらにショッキングに扱おうと思っていないし、もう、ごく自然にやってるだけですね」

まだ決められない。遠くの目標なんて持てない

取材場所は東儀秀樹の、いわば基地。世界の民族楽器に、作曲に使うキーボードとマック、AV機器、ロングボード、映画『イージーライダー』のパネル(バイカーなのだ!)、カメラ、かつての愛車67年式ムスタングの写真(事故で全損!)…仕事と趣味にまつわるさまざまなアイテムが詰まっている。

「面白そうだと思ったものは全部取り入れないと気がすまない(笑)。それは趣味でも音楽でも同じです。思いついたときにやらないと、すぐにまた新しいことに興味が向いて、できないんですよね。それを自分でわかってるから」

現在、46歳である。実は20代のころ、ひざに腫瘍ができて入院した。偶然聞いた家族と医師の話から、余命いくばくもないことを知ったという。

だったら死ぬ予定日が知りたいなって思った。それがわからないと、残りをどう配分して生きたらいいかわからないでしょ。いきなり“1週間後に”って言われても困るから。“あいつに電話しておきたかった”とかって思いながら死ぬのはイヤでしょ。まあでも落ち込みはしませんでしたね。“そうかガンなのかー。じゃあ死ぬまでに生ききってやろう。それで思いっきり生きられれば、満足に寿命を全うすることができるんだろうな”って簡単に思うことができた。それがいまも続いてる気がするんですけどね」

数年で全快。驚くべきことに、この出来事はきっかけではない。20代のこの時点ですでに、いろんなことを面白がる姿勢はできあがっていたのだ。

さらに遡って18歳。宮内庁に楽生(雅楽の勉強をする人)として入るときの話。東儀は彼の母方の筋。父上は商社マンだった。子ども時代をタイやメキシコで過ごし、幼いころからグローバルな感覚が自然と身についていた。幼少の経験がひょっとしたら、彼のフラットでナチュラルな視点の源になっているのかもしれないが、何の証拠もない。で、音楽はロックもジャズもクラシックも大好きで、本当は高卒後、ミュージシャンになりたかったのだ。そこで、雅楽を薦められた。

「“ああ、もしかしたら面白い道になるかもしれないな”って自然に考えられました。どこかに、自分で雅楽をやるべきだっていう誇りや責任感も持っていたから、反抗しなかった」

ひざの腫瘍のときに感じた“死ぬなら、それもまたよし”という気持ちに近い。18歳ですでに、東儀秀樹性はあった。本人は、たまたま自分という個体が生まれ持ったものだと仰ってますが…。

「よく言うんだけど、3日後に僕は雅楽師じゃないかもしれないんです。それはまさにいまこの瞬間だけで、1年後には陶芸家になってるかもしれないし、蒔絵描いてるかもしれない(笑)。このインタビューを終えて、出かけた先で誰に会ってどんな影響を受けるかもわからない。だから“こうでなければならない”なんてことは一切決められないですね。遠くの目標みたいなものも持っていないですし」

昨年、自動車事故で重傷を負った。またもや死を目前にした。そうしたことが、生まれもった“人生を面白がる”姿勢をさらに強くさせているのかもしれない。

「このいまの一瞬を満足して通過できるのが最高の生き方だと思えるから。目標を定めながら達成しないまま途中で死にたくないし(笑)。ああ気持ちのいい人生だったなと思えるなら、明日人生が終わってもいい…20年後でも30年後でも。そう思ったほうがいい人生といえるだろうと思うし」

宮内庁では7年勉強して正式な楽師になる。勉強中もギターを弾いてライブハウスに出演していたりしたというが…ともかく、修行中もつねにトップクラスの成績を維持し、名実ともに超一流の雅楽師となった。この人にはバックボーンが確かにあるのだが…。

「キョロキョロキョロキョロしてるんですよ。目標が定っていない分、左右を見ながら歩いて、いろんな出会いが増える。それで面白そうなほうにいってしまう。キッチリ目標を定めていたら、“ああイカン、僕の行くほうはこっちじゃないぞ”って我慢することになるかもしれないけど、僕にはそれがない。たとえば雅楽の道を行く最中にものすごく惹かれるものがあったら、そこにもちゃんと寄り道をしようと。もしそこにどっぷりはまったら、“雅楽じゃなくてこっちだったのか”って思えるんです。自分がやるべきことが何かっていうのは、死んで天国に行ってから“こうだった”って、過去形でやっと気づくべきことなんですよ」

ソロデビュー、そして宮内庁の退職は楽師として10年勤めた36歳。

「古典がイヤだったんじゃないんですよ。外に出たら自分なりに古典ができるだろうし、新しい音楽もやりやすい。いいことばかりだって簡単に思えたので退職しました。古典も含めた別のやり方をやろうと思ったんです」

すべてのモチベーションは“キョロキョロ→面白そう”から。そう思ったら始めているし、失敗する気はない。

「失敗しても打撃を一切食らわない。失敗も価値のあるものだってわかってるし、数時間後には笑い話のネタになる(笑)。たいていワクワクしてますね」

自分のなかの未知数に期待しているという。子どものころからそこはまったく変わっていないのである。

「いや、むしろいまのほうがずっと密度が濃いですよ。子どものころの情熱をキープしながら、さらに何かいろんなものに触発されるような感じ」

1959年生まれ。雅楽師。1300年間雅楽を世襲してきた楽家に生まれ、高校卒業後宮内庁楽部に入る。篳篥を中心に、琵琶・鼓類・歌・舞・チェロを担当。96年、アルバム『東儀秀樹』でデビュー。宮内庁退職後、雅楽器とシンセサイザーを融合させた独自の曲作りに取り組む。第10回読売演劇大賞優秀スタッフ賞受賞(蜷川幸雄演出「オイディプス王」舞台音楽)、第55回芸術選奨文部科学大臣新人賞などを受賞。04年、上海若手音楽家とのユニット「TOGI+BAO」を結成。アルバム『春色彩華』が本年度ゴールドディスク大賞(純邦楽部門)を受賞。5月24日にはライブアルバム『SUPER ASIA』を発売。「TOGI+BAO」全国ツアーも開催する。7月2日神奈川県民ホール、7月4日・5日渋谷文化村オーチャードホールをはじめ、全国20カ所以上。

■編集後記

宮内庁で雅楽を学ぶには、14歳ごろから通うのが通例。7年の修行を経て一人前の楽師となる。東儀秀樹の25歳は依然修行中であった。「“なるほどこういうのもあるんだ”っていうパズルを紐解いていくような面白さがありました。“人生の糧を見つけたり!”ではなかった(笑)。宮内庁に入ったということは楽師として定年までやっていくんだろうなっていう感覚でしたね。後に、自分の音楽を発表するようになってから古典の深みがよりよくわかるようになってきました」。

東儀秀樹

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