「何でもええねん。カッコつけたらあかんで」

島田洋七

2008.10.02 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
「教え」だけでなく、体験から得た言葉

島田洋七は1950年、広島市に生まれた。幼いころ父上を原爆症で亡くし、小学2年生から中学卒業までは佐賀県のおばあちゃんに預けられて暮らした。生活は極貧だったが、おばあちゃんから、生きるうえでの哲学を学んだ。自身「オレは“ばあちゃん教”の信者みたいなもんやから」と笑う。

いま、生活の中心となっているのは講演。冒頭の見栄の話もそうだ。この20年間で3900回以上の講演会を行い、いまも月のうち20日以上は自宅のある佐賀を離れ、日本全国あちこちで話す。小さな町の商工会議所から大企業のセミナーまで。話術はあるしネタも満載。30歳そこそこでB&Bとして直面した漫才ブーム当時の豪快なエピソード、浮き沈みの話、ビジネス論…だが、「話す内容は考えてないよ」。

いわゆるぶっつけ本番。笑いを取り、泣かせ、75分後には、聴衆に晴れ晴れとした顔で会場をあとにさせる。

20年前、群馬のちっちゃな商工会で初めて演壇に立ったときから、手応えを感じたという。「よっしゃ、おれ、講演で日本一になったろ!」と。

もちろん、実際にしゃべってみて得た実感もあった。

「こんなに笑ってくれて、漫才は7分とかだから、いつも物足らないんよね。講演は1時間15分たっぷりある。こら、ええ商売やなと。人間ってほんと、見栄を張らずに正直に何でも言えばね、感動してくれるし笑ってくれる。俺は淡々とほんまにあったことをしゃべるだけやから。ほんで講演が終わるころに“今日の話は8割が嘘ですよ~”って言うたらウワーッて笑うんですよ。それで“2割が作り話ね”でドカーンとなって。いや、ほんまやけどね(笑)」

それをCDにした。制作は佐賀県に本社を置く自社・B&Bレコード…。

「本社も何も、社員3人しかおれへん(笑)。何でもええねん。“ごっこ”やから。どんなに真剣に物事考えたってね、やってんのはコメディアンやからね。カッコつけて六本木あたりに事務所を借りたって意味ないことやし。佐賀でいい。地方にレコード会社があるのはたぶんうちだけやね(笑)」

一貫して「カッコつけんでええ!」。で、フッと真顔になって言う。

「自殺者でいちばん多いのが男の40~50代ですよ。会社潰して“カッコ悪い”とか“人の下で働くなんて”とか…頭を下げたらええねん、従業員に『すまん、一生懸命やったけどダメやった。みんなどっかに就職してくれ。俺もどっかで働く。もう一回イチからやり直す』って言うたらええのに」

ちょうど、洋七が講演を始めたころが似たような状況だった。

「俺、テレビからは消えてても講演はやってた。タレントはみんな、テレビに出んとカッコ悪いと思うとるわけ。『営業だけなんです~』って恥ずかしそうに言う人おるけど、営業って実力がいるんよ。テレビの人気だけで営業行ってる人は、テレビが終わったらそれもなくなる。俺の場合、テレビが何もなくても営業三昧やった。しゃべれるからやね…もちろん、昔よりもギャラが安いという理由もあるけど(笑)。ともかく、それやったら講演をずっとやっていつかすごいもんにしようと思ったのよ。笑って泣いて、ごっつオモロい講演。昔は若い子がワーキャー言うてくれたけど、今度はおばちゃんたちのスターになろうって」

すべては、今日までの実績が物語る。

「山あり谷あり」の意味とは。死ぬまでにやるべきこと

若いころから将来設計はなかった。ただ並々ならぬ決意と行動力はあった。最初は駆け落ち&上京。歌手になるべく俳優座の養成所に入ろうとした。

「それは間違いやった(笑)。すぐ大阪にいた先輩んところに居候することになった。先輩はサラリーマンで、昼間仕事してて、俺がヒマしてたら、奥さんが『吉本でも見てきたら?』。そんとき俺、知らんかってん。『それ何ですか~』って言いながら見に行ったらオモロイ。(中田)カウス・ボタンさんとか(笑福亭)仁鶴さんとか観て、『人を笑わすのってカッコええなあ、俺もこれになろ』って思ったら、なれてん」

20歳で今喜多代・島田洋之介に弟子入り。22歳でB&Bを結成。

「うまくいったのよ。1年半くらいでNHKで賞をもろたの。師匠がびっくりしてたわ。普通3年せえへんとコンビ組まれへんの。でも師匠が『はよ組め』言うから組んで、半年目に」

「なれてん」で吉本入りして、この文章わずか3行分で頭角を現したのだ。

東京進出は29歳のとき。実は相方が2度かわり、第3期B&Bとしての船出だった。大阪で安定した生活を送ってはいたものの、東京の「大きさ」にやられてしまったのだという。

「体がなまるねん。元気があまんねん。新しいことやりたくなんねん。同じ3分の漫才やるんやったら、全国で映った方がええやん! まだ吉本の拠点が、関西にしかなかった時代ですよ。『なら辞めて行きますわ』って言うたら『がんばって行ってきー』って(笑)」

マッシュルームカットふうのロン毛、Tシャツにジーンズ、怒濤のマシンガントークにダイナミックな動きのギャグ。瞬く間にB&Bは東京を席巻した。そしてツービート、紳助・竜介、ザ・ぼんちらを世に出した空前の漫才ブーム。「体がなまる」とか言ってる場合ではなくなったのだ。

「うん。週にレギュラー19本やってた。それ以外にコンサートとかね。きつかった~。生放送のレギュラーがあって、毎週8分の漫才を新ネタでやらなあかん。2年くらいやって、フラフラになったよ。ミュージシャンにたとえたら毎週新曲2曲やで。それもヒット曲。ものすごいイヤやった。けど、俺は前の日まで考えへんのね。それで前の日に『何にしよう…スルメや!』って思う。根拠はない(笑)。思うだけでネタは作らんし、洋八とも合わさへん。『はいどうもこんにちはー。世の中、スルメやで~っ!』『何が!?』って(笑)」

当然収入も増え…どころか、押し入れに現金3億円入りのダンボールが無造作に置かれていたのは有名な話。

「でもなあ、金があったらなんか世の中変わんのかと思ったけど、ごはんは3食以上は食えへんのよ。32~33歳のころ、ブームの終わりごろにうちのばあさんが言うたよ。俺が『世の中、山あり谷ありやな~』って言うたら『おまえ、意味わかってないやろ』って。『一回山の頂上まで行ったら、記念写真撮って下りてくるもんやぞ。人間、いつもは谷に住んでんねん。きれいな水が流れて動物も集まって花も咲くやろ。おまえはここを忘れてる。5年働いたら5年休め。普通に生活せい』と」

83年にはB&Bを解散。「でも、落ちていく前に、俺が、休もうと思ってやめたんやで」と告白する。

お好み焼き屋を展開し、潰し、別のコンビを組み、やめ、おばあちゃんの思い出を自費出版し、国政に打って出、落選し…いろいろなことをやってきた。やっぱり動いていないと体がなまるから。自費出版の本があの『佐賀のがばいばあちゃん』だ。後に、文庫化され、映画化され、ゲーム化され、舞台化された。自身がメガホンを取った映画も来年公開になる。そして講演も続く。「俺は新しいことにはムキになってまうねんなあ。同じことはもうええよ」

もう何年かで死ぬと思っていて、じゃあそれまで何をしようかと考える。

「日本は世界から見たら幸せ。経済はどこまでいけばOKなのっちゅう話ですよ。なんぼ給料もろても人間は欲があるから納得せんでしょ? もし就職してるんやったらできるだけ辞めるべきじゃない。人にも金利ってつくもんやで。必死でやってふっと10年たったときに、それはわかる。1日や2日じゃ金利はわからんよ。だから、1日8時間勤務やったら、あと2時間人の見えんところで一生懸命やってごらん。それをやらんと、焼き鳥屋でぼやくのはもったいない。裕福やから焼き鳥屋に行けんねん。『うちの会社ダメだよな~』じゃなくて、おまえが立て直せや(笑)。それか、会社がつぶれてもええように他の仕事の勉強をしておくのよ。そしたらスッと次に行けるやん」

この日、インタビューの後は芝居の稽古をつけ(がばいばあちゃんだ)、佐世保での講演に旅立つ。その前に福岡で経営するおでん屋さんに立ち寄り、コンビニで展開するオリジナル弁当のメニュー会議…2年半、休みなしらしい。「そう、若者はもっと働け(笑)」

1950年広島市出身。22歳のとき漫才コンビB&Bとしてデビュー。80年代の漫才ブームを作り上げる。『もみじまんじゅう』のギャグは一世を風靡し、さほどメジャーでもなかったもみじまんじゅうを一躍広島名物に押し上げた。83年、B&Bを解散するも、後に再結成。87年に自費出版し、後に徳間文庫から発売された『佐賀のがばいばあちゃん』はシリーズ累計670万部以上の大ベストセラーに。韓国、台湾、英語などのバージョンで世界に広がる。また映画『島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん』(09年公開予定)で監督デビュー。80年代後半から始めた講演活動も好評。現在本拠地である佐賀で収録されたCD『佐賀のがばいばあちゃんトークライブ』が発売中。

■編集後記

若くして頭角を現したが、相方は次々と代わった。B&Bといえば洋七・洋八だが、洋八は3代目の相方。初めて賞を取ったのは初代。「次に相方が代わって何年かやって大阪しかテレビ映らんのがわかったから、東京でも行くかと」。まさに25歳のころ、最初の東京進出を決意するが相方の反対で頓挫。コンビも別れる。そして洋八との出会い。「また1年ぐらい練習してやったら、またNHKで賞もろたんや。授賞式のときの局長が一緒で、『また君か』って言われたな(笑)」。

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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