「人間、いろんな顔がある」

草野 仁

2008.11.06 THU

ロングインタビュー


小林ミノル=文 text MINORU KOBAYASHI 稲田 平=写真 photography PEY INADA スチーム=…
理不尽なまでの強さも人生と仕事の糧にして

そんな草野少年に壁となって立ちはだかり、大きな影響を与えたのが、長崎大学で教鞭をとっていた数学者の父の存在だ。満州の大学で教師をしていた父が、抑留されていたシベリアから家族の元へ戻って来たのは、終戦から4年後、1949年のことだった。

「父は、本当に怖い存在でございました。自分から“お父さん”と呼んだことはなかったですね。猛烈なスパルタ教育で、宿題を忘れるとよくげんこつが飛んできました。しかし、学校での出来事を報告するときちんと聞いてくれました。私を叱ることもあれば、それは先生の方が悪い、と言ってくれることもあり、公平に見てくれているんだな、と信頼してもいました」

草野の司会に特徴的な客観性や公平性は、父上のこうした性格を色濃く譲りうけたものなのではないだろうか。

こんなエピソードがある。高校時代、陸上部に所属し、短距離走の選手だった草野は、100mを11秒台前半で走り、オリンピック出場も目論んでいたほどだった。ところがあろうことか、2年のときに父が勝手に学校へ退部届けを出してしまったのだ。

「『スポーツマンとしての芯の強さがお前にはない。しかもスポーツ選手の人生は短く、引退後の人生の方が長い。そのことを考えて少し腰をすえて、勉強をしたらどうか』というのが、父の言い分でした。もちろん反発もありましたが、自分のことを慮ってくれた上での結論だとも思いましたので、結局従いました。それに、父自身、かつてはインターハイの砲丸投げで全国優勝するほどのスポーツ選手でしたから」

その父が言うのだ。文句は言えない。

そして1年間の浪人生活の後、草野は、東京大学文学部社会学科に入学する。大学時代はジャーナリストや報道記者を目指し、卒業後には希望通りNHKに就職。だが配属された先はアナウンス室だった。報道記者になれるものとばかり思っていた草野は途方にくれたそうだ。しかし、他の会社の面接を受け直すこともできず、アナウンサーの職務を全うすることになった。

配属先は鹿児島放送局。23歳だった。「アナウンサーのおもな仕事は話術による番組のタイムキーピングなんです。評論家や担当記者に話を振り、場を回すのが仕事です。どれほど自分が詳しい分野でも、自分自身の意見や考えを表明するチャンスはほとんどありません。これはちょっと…、と最初思いました。でもやるしかない。ですので、まずアナウンサーのなかで、いちばん自己表現ができる分野を探しました。そうしたところ、それがスポーツの中継だった。これなら自分自身の分析や気持ちを表現できると思ったんです。それにスポーツはずっと好きでしたからね。そこで、高校野球の中継をやりたいと手を挙げました」

その仕事を始めて、アナウンサーの面白さや醍醐味に気づくようになった。「アナウンサーは、放送時間を管理する役目を担うと同時に、表現の場を与えられます。上手なアナウンサーは、誰も見ていない視点で捉えたり、視聴者がはっと驚くような表現をするものです。私もしばらくしてこの仕事の奥の深さに気づきました。どんな仕事もそうですが、追究していくと終わりはなかなか見えません」

鹿児島放送局や次に赴任した福岡放送局では、お茶くみもさせられた。

「どうせなら喜んで飲んでもらった方がいい。濃くしたり薄くしたり熱くしたりぬるめにしたり、その人の好みに合ったお茶の入れ方を工夫しました。仕事に没頭している先輩には、そっとお茶を出し、所在なさげにしている先輩には『どうぞ!』と目の前にどかっと置く。“お茶くみ”は“人の気持ちをくむこと”でもあるんです」

20代の草野は、アナウンス技術を磨く一方で、普段の気配りも怠らなかった。それが、丁寧に対象を見つめるアナウンサーとしての視点に磨きをかけた。まさに支局時代は、草野にとって修業の場だったのだ。

鹿児島放送局に3年、福岡放送局に3年在籍した後、大阪放送局を経て東京のアナウンス室へ栄転。76年のモントリオール五輪では、NHK史上最年少アナウンサーとしてオリンピック中継を担当し、スポーツアナウンサーとしての地位を確立。さらに続く80年のレイクブラシッド五輪では、5冠を達成したスピードスケートのエリック・ハイデン選手の全レースを中継するとともに本人へのインタビューも行った。

独立という選択と、さらに目指した“その先”

85年に草野はNHKを退職しフリーとなる。陸上部の退部、NHK入局と並ぶ、あるいはそれ以上の決断だったはずだが、このチャレンジも見事に実を結ぶ。93年から07年まで続いた『ザ・ワイド』では昼の顔として活躍し、86年からスタートした長寿番組『世界 ふしぎ発見!』では、今も黒柳徹子や板東英二らベテラン回答者たちと丁々発止のやりとりを続けている。

「NHK退職は、当時としてはかなり無謀でしたね。“自分が納得できる仕事をしたい”という反骨精神と信念だけでした。しかし、いま振り返ると、あのときに決断をしてよかったと思います。ですので、若い人たちが転職することに私は反対しません。ただ、いまいる職場で可能な限り努力するのが先決です。そうすればおのずと“天職”も発見できるでしょう」

順風満帆に司会者としてのキャリアを積んで来た草野だが、独立からほぼ20年たった04年、また新たなブレイクスルーポイントが訪れる。浅草キッドとの邂逅だ。浅草キッドとの共演番組『草野☆キッド』で、誰もが想像しえなかった新たな草野像が、世に送り出されたのである。還暦を過ぎているとはとても思えない肉体美を披露し、電話帳を両手でちぎり、トラックを引っ張り、芸能人レスリング大会で優勝する草野に、お茶の間はぶったまげた。しかし、アナウンサーになる前の少年時代からのエピソードを順に聞いていると、この“スーパーひとし君”ぶりも十分首肯できるのだ。

「NHKの出身ですし、生真面目な仕事を中心にやっていましたから、周囲からは裃を着ているようなヤツだと思われていたと思います。でも、やれと言われればなんでもやってしまうお調子者でもあるんです。そこを浅草キッドのお二人が、うまく引き出してくれました。20代のころ、父から『お前は俺のことを“石部金吉”と思っているだろう』と言われたことがあります。私がうなずくと、『人間いろんな顔がある』と、父はニヤッと笑いました…」

今度は、草野自身が我々にニヤッと笑う番だったのだ。

座右の銘は、「夢、実現」。

エリートコースを歩んできたように見える草野だが、実は彼のキャリアは、地道な努力と新たな分野へのチャレンジの連続だった。いくつになっても、爪を研ぎ、新たな挑戦を続けるこのタフさこそ、草野 仁を草野 仁たらしめている強さの本質なのかもしれない。

1944年満州生まれ。終戦と同時にシベリアに抑留された父と別れ、母や兄姉とともに帰国し、長崎県島原市で育つ。東京大学文学部社会学科卒。67年、NHKにアナウンサーとして入局し、鹿児島、福岡、大阪放送局を経て、東京アナウンス室へ。『ニュースセンター9時』やオリンピックのアナウンサーとして活躍。85年、NHKを退職し、フリーに。日本テレビ系列『ザ・ワイド』(93~07年)TBS『世界 ふしぎ発見!』(86年~)などの司会者として活躍。05年より浅草キッドとの共演番組『草野☆キッド』がテレビ朝日系列で始まり、新たな一面を披露。大のWWEファン。『まぼろしの邪馬台国』オフィシャルサイトは

■編集後記

結婚は早かった。NHK入局後、最初に赴任した鹿児島放送局時代に年上の奥さんをめとった。当時は、亭主関白全開で振る舞っていたという。「結婚生活における夫のあり方とはわがまま放題することだとばかり思っていました。しかし、フリーになって気づいたんです。仕事のために早起きする自分につきあい、朝3時に起きる姿を見て『敵も大変だな』と。考えを改め、“遅ればせながら”、よき夫、よき父親としての務めを果たすようになりました」。

小林ミノル=文
text MINORU KOBAYASHI
稲田 平=写真
photography PEY INADA
スチーム=編集
editorial steam
石田章一(Climb)=ヘア&メイク
hair & make-up SHOICHI ISHIDA

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