「あっという間に60歳です、ご注意ください」

久米 宏

2009.06.04 THU

ロングインタビュー


小林ミノル=文 text MINORU KOBAYASHI サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA
様々な“なりたいもの”を経て最後に、偶然“なったもの”

「通っていた品川の小学校が羽田空港の近くで、教室から飛行機の離着陸がとてもよく見えたんです。“あれを操縦できたら気持ちいいだろうな”って思いながらずっと眺めてました」

中学に入ると新聞記者に方向転換。

「それがくだらない理由なんですよ。小学生のころ、朝日新聞社に『どうしたらパイロットになれますか』って手紙を送ったんです。そのころはグーグルなんてありませんでしたからね。そうしたら、受験すべき学校や勉強すべき事柄が、便せん10枚にびっしりと記されて返ってきたんです。それでパイロットになるには理数系の勉強が必要だということがわかった。僕は数字が大の苦手だったので、じゃあ、こんなに優しい返事をくれるような新聞記者になろうと」

さらに早稲田大学入学後、方向転換。演劇にのめりこみ、授業に出席しなくなり、必然的に成績も急降下。

「卒業ギリギリでしたから、新聞社は試験を受ける前にあきらめました。そのかわり、演劇プロデューサーになろうと本気で思ってましたね。当時、民藝なら民藝、文学座なら文学座と劇団内でしか公演を打っていなかった。劇団やジャンルの垣根を超えて、ベストなキャスティングで舞台をつくることができれば、それが商売になると踏んでたんです」

ところが“25歳以下なら誰でも受けられる”という話を耳にして“たまたま”受けたTBSのアナウンサー試験に合格(ちなみに、ニッポン放送は試験に遅れて不合格)。

そのときの面接に、いまの彼を彷彿とさせるエピソードがある。

「5次試験で、赤電話(当時の公衆電話は赤かったのだ)が出てきたんですよ。それで、さあこれを前に3分間話してくださいと言われて、自宅の母親に電話をかける演技をしたんです。自宅の電話番号のダイヤルを回して、『実はいま試験の真っ最中で、試験官が目の前でこんな顔で見ていて、緊張してるけどうまく話せている?』って。計算高いといえば計算高いですよね。人がやらないことをやるわけだから」

はずした場合のリスクは高い。もう一度同じ状況になっても、いまならやらないかもしれないという。

「合格したから、いまこうして言えてるわけで、ひとつ間違えたらアホですよ。試験官だって、アナウンサーとしての適性を疑うかもしれないし」

しかし“他人がやらないから思い切ってやっちゃう”というスタンス! 空手でいうところの“寸止め”からさらに少しだけ手を伸ばし、相手の頬をさらっと撫でる茶目っ気のような…。

「生放送で発言する場合は、言っていいのかどうか、寸前に判断して発言しています。でも録画なら、『やっちまえ』ってのがほとんどですね。やらないで後悔するよりやって怒られた方がいい。『ニュースステーション』のころ、番組に届く手紙や電話の8~9割は批判でしたからね。お誉めの電話なんてかかってきません(笑)。この商売は“嫌われてナンボ”。みんなに好かれていたら面白い番組はつくれません」

そう言ってまたもや笑う。この開き直りというか、腹の据わり具合。根っこは20代後半のころにあった。

自己を見つめ直せた、何もしなかった時期

「病気で休養を余儀なくされたんですね。仕事も辞めようと思っていましたから。社会人になるまで病気らしい病気をしたことがなかったんです。ところが、TBSに入って胃を悪くして最終的には結核になっちゃった」

理由はなんと仕事のストレス。スタジオの無音に耐えられず、緊張のあまり胃を悪くしてしまったのだという。

「『神様が、この仕事に向いてないと言っているんだな。ほかの仕事を探そう』と決心しかけました。実際、3人いる姉たちが転職先を本気で探してくれたんです。一番下の姉夫妻は、レストランを何店舗か経営していたので、原宿のお店の店長の席を空けるからとまで言ってくれて。幸い病気も回復したので、その話も立ち消えになったんですが、“やってるだけで儲けもの”みたいな感覚が植えつけられましたね」

1970年、ラジオ番組『永 六輔の土曜ワイド』のリポーターとなり、「スタジオの無音は辛いけど、街中での中継ならストレスなくしゃべれる」ことが判明。おしゃべりの仕事が俄然面白くなった。

このときのパーソナリティ、永 六輔氏に会うと、いまでも緊張するそうだ。

「いまだに怒られるんですよ。自分の番組に出てもらっても、劇場でばったり会っても、テレビ局の廊下ですれ違っても(笑)。だからテレビで顔を見ただけでも緊張しちゃいますね。それどころか新聞で“永 六輔”の三文字が目に入っただけで怖い(笑)」

萩本欽一によって、後に一世を風靡するクイズ番組『ぴったし カン・カン』の司会者に抜擢されたのは、75年。久米 宏31歳のときである。

「この番組で、TVって“映るもの”なんだってことが心底わかった。萩本さんも坂上二郎さんもそんなに話さないんですよ。二郎さんは『ニャハハー』って笑うだけだからわかるけど、実は萩本さんも要所要所でしか話さない。僕はラジオでトレーニングを積んでいたので、とにかくしゃべらなくてはいけないっていう強迫観念にとりつかれてたんですが、TVでは、黙っててもなんの問題もないんだと」

“やってるだけで儲けもの”精神としゃべり手としてのスキルがシンクロしたのがこのとき。それは『ザ・ベストテン』(78~85年)や『久米宏のTVスクランブル』(82~85年)、『ニュースステーション』(85~04年)というTVでの成功へとつながっていった。

「僕の場合、病気の全快とTVでうまくいったのが一緒だったから余計にそう思うのかもしれませんが…。25~30歳って、自分のことを考える最後の期間だと思います。だから、みなさんに言いたいのは、じっくり考えてくださいということ。30歳を過ぎると、雑事が増えて人間関係もどんどん複雑になって、自分のことばっかり考えてられません。それでも考えてると、周囲からバカだと思われます(笑)。あとね、あっという間に人間は60歳になりますから、どうぞご注意ください」

予定の取材時間が終了すると、久米 宏は、こんな言葉を残して席を立った。

「でも、たまたまうまくいったからこういうことが言えるんですけどね」

希代の名司会者が立ち去った後には、穏やかな人情味が残り香のようにしばし漂っていた。

1944年埼玉県生まれ。司会者。早稲田大学第一政治経済学部卒業後、67年にTBSにアナウンサーとして入社。70年より『永 六輔の土曜ワイド』のリポーターを務める。75年スタートの『ぴったし カン・カン』、78年スタートの『ザ・ベストテン』等の司会でお茶の間の人気を集めた後、79年にTBSを退社しフリーに。85年から04年まで、テレビ朝日『ニュースステーション』のメインキャスターを務め、日本のテレビニュースのイメージを一新する。同番組終了後も、ラジオやテレビのバラエティ番組で活躍。

■編集後記

永 六輔のラジオで仕事の面白さに目覚め、自ら中継を演出したりもした。たとえば72年のミュンヘンオリンピックの際には、あらかじめ仕込んでおいたドイツ人の会話や雑踏の音を使って、“ニセ・ミュンヘン中継”を敢行。ただどれだけ出来がよくとも永は決して誉めてはくれなかったという。そしてT Vでは75年から始まった『ぴったし カン・カン』における萩本欽一からの薫陶。まさに司会者としてのあり方が確立される時期でもあったのだ。

小林ミノル=文
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サコカメラ=写真
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