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アユが躍る多摩川、「死の川」からの復活

2016.10.09 SUN

 多摩川の源は、山梨県と埼玉県の県境にそびえる笠取山の山頂直下、水干(みずひ)と呼ばれる場所だとされている。私もそこを訪ねて、「水干 多摩川の源頭 東京湾まで138km」と書かれた案内板を目にした。岩の間から滴り落ちた水が沢となり、一之瀬川、丹波川と名前を変え、小河内ダムから下流は多摩川として流れ下る。

 しかし、その水の多くが東京湾までたどり着くことはない。水干から84キロほど下流にある羽村取水堰で、8割ほどが抜き取られるからだ。

流れに身を任せて川を下っていく川崎市立上丸子小学校の児童たち。川の生き物や歴史などを学習材料として、ふるさと意識を育てようという「多摩川学習」の一環だ。
流れに身を任せて川を下っていく川崎市立上丸子小学校の児童たち。川の生き物や歴史などを学習材料として、ふるさと意識を育てようという「多摩川学習」の一環だ。
(Ken Tsurusaki/National Geographic)

中・下流域では生活排水も“水源”


 それでは、堰から下流の水はどこから来るのか。秋川や浅川といった支流の水や川底から湧き出す伏流水もあるが、実は、中・下流域の水のおよそ半分が下水の処理水だ。この区間には都の6施設のほか、三鷹市や川崎市などが管理する四つの下水処理施設があり、合わせて年間3億7000万立方メートル余りの水が多摩川に流されている。これは、羽村取水堰で抜き取られる量よりも多い。

 つまり、家庭の台所や風呂、洗濯、トイレなどで使われた水が多摩川の源なのだ。この川はそれだけ、人間の影響を受けやすい。

 半世紀ほど前、この川は「死の川」と呼ばれていた。水質が著しく悪化し、アユをはじめ、さまざまな生き物が姿を消したのだ。調査用の定置網から2キロほど上流にある調布取水堰の周辺は当時、汚れた多摩川の象徴だった。白い泡が川面を覆い、風が吹くと異臭とともに、付近の道路や住宅へ飛ばされていった。

 東京都福生市の高崎勇作さんが川の異変に気づいたのは、東京オリンピックが開かれた昭和39(1964)年のこと。近所の魚屋で買ってきた多摩川産のウグイを焼いていると、異臭が漂い始めた。何か変だと思いながらも、焼けた魚を恐る恐る口に運ぶ。まずい。思わず吐き出した。「あれ以来、多摩川の魚を食べたことはありません」。川を眺めながら、高崎さんは言った。河口から50キロほど上流の川岸に生まれ育った高崎さんは、82歳になる今も川のすぐそばで暮らしている。「私の一生は多摩川の思い出ばかりです」

 45年前に都が多摩地域で最初に運用を始めた南多摩水再生センターを皮切りに、約20年かけて多摩地域に6カ所の下水処理施設が整備された。昭和40(1965)年に6%だった同地域の下水道普及率は現在99%を超えている。6施設の下流にある多摩川原橋で観測された河川水の「生物化学的酸素要求量」(BOD)値の変化を見ると、昭和46(1971)年に6.6mg/Lだった値が、およそ10年間は増加傾向にあったものの、その後、減少に転じ、平成15(2003)年からは3mg/L以下で推移している。数字からも、多摩川がアユのすめる川によみがえったことがわかる。

 都は現在、活性汚泥法に加え、赤潮などの原因となる窒素やリンを取り除いたり、より微細な汚れを除去したりできる高度処理の導入を進めている。「技術的には、処理水をもっときれいにすることはできます」と下水道局の宮本彰彦さんは話す。ただ、コストがかかり、その分、下水道の維持管理費が高くなるという。

(ナショナル ジオグラフィック2016年10月号特集「自然と人間 大都会のふるさと 多摩川」より)


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