グリエルだけじゃなかった! 給料もらって失踪も?

球界助っ人トンデモ契約事件簿3選

2015.04.23 THU


グリエルは「ヤンキースに入りたい」などと話しているという。DeNAの高田 繁GMは、「メジャーでも日本の球団でも、取りたいところがあれば取ればいい。うちには必要ない」と怒り心頭…
3季ぶりの単独首位も束の間、その後連敗を喫してBクラスに急降下してしまったDeNA(4月22日現在)。こうなると、昨季クリーンナップを打ったグリエルがいれば…と愚痴りたくなるファンもいるだろう。予定されていた来日日程を拒否して契約解除となった「キューバの至宝」ことグリエル。当初はケガが理由とされていたが、MLB入団が本当の狙いとも報じられている。

グリエルの例に限らず、プロ野球では外国人選手の契約トラブルや突然の退団劇は珍しくない。有名なところでは1997年に「野球をやめろという神のお告げがあった」というトンデモ理由で退団した阪神のグリーンウェルの例がある。過去、日本球界に衝撃を与えた契約トラブル3例を振り返ってみよう。


◎2年契約も失踪&無断帰国で出場わずか14試合の大物

1973年6月に「MLB通算219本塁打の大物助っ人」という触れ込みでヤクルトに入団したのがジョー・ペピトーン。ただこの選手、メジャー時代からトラブルメーカーとして有名だった。案の定、来日後すぐに球団が企画した「ペピトーン・デー」の試合を欠場して失踪。その後、離婚問題を理由に無断帰国してしまう。8月に再来日したものの、今度はアキレス腱痛を理由にまた無断帰国。結局、この年は14試合しか出場しなかった。

困ったのはヤクルトの三原 脩監督。これでは戦力として計算できないと翌年は契約しないようフロントに申し出たが、ペピトーンとは2年契約を結んでいたため途中解雇できなかった。といっても2年目は来日する気配すらなく、挙げ句、前年の来日時にかかった“荷物と愛犬の空輸費用”を要求するというわがままぶり。ヤクルトは結局、コミッショナー事務局に任意引退選手公示申請をして解雇した。


◎給料が支払われた翌日に雲隠れして消息不明に…

1度も試合に出ないまま契約を解除されたのが、1974年に日本ハムに入団したバール・スノー。この人物、一般企業の社員として来日した際、ついでに受けた日本ハムの入団テストに合格してしまったという変わり種。ところが、2軍調整中だった4月末、最初の給料が支払われた翌日に雲隠れしてしまう。元々いた会社に問い合わせても消息はつかめず、最終的には故郷であるアメリカ・ユタ州で発見されたが、そのときにはもう給料は使い込んでいた。

スノーだけに春まではもたなかった…という笑えない状況に、日本ハムはすぐに契約を解除。コミッショナー事務局からも無期限失格選手として処分が下った。


◎来日を拒否し続けた契約金6600万の監督

選手ではなく、監督として契約しながら来日しなかったのがレオ・ドローチャーだ。MLBでもドジャースやジャイアンツなどで4球団、24年の監督歴を持つ名将は、1976年に太平洋クラブライオンズ(現西武)と契約金6600万円でサイン。不人気球団の目玉として注目された。球団はドローチャーの拠点としてホテルのスイートルームを貸し切り、200万円をかけて大改装。飛騨地方から木材を取り寄せて、特注品のセミダブルベッドにロッキングチェア、洋服ダンスを作るなど、来日準備を進めた。

ところが、キャンプまでには来日するという話が3月に延期され、チームはオープン戦に突入。その後も「風邪を引いて2、3日出発が遅れる」「肺炎と肝炎を患っていたのであと5週間待ってほしい」と理由を重ねて来日を拒否し続け、業を煮やした球団は手紙で契約破棄を通告。ヘッドコーチを急きょ監督に昇格させたが、こんな状態で勝てるはずもなくチームは最下位に沈んだ。


ちなみに、最下位となった1976年の太平洋クラブ以外も、上述したトラブルがあった1973年のヤクルト、1974年の日本ハム、おまけに1997年の阪神、いずれもがそのシーズンはBクラスに沈んでいる。やはり助っ人が機能しなければ、チーム成績はともなわないのだ。

今季のDeNAにはぜひとも奮起してほしい。グリエルに「やっぱり残ればよかった」と思わせるには優勝しかない!
(オグマナオト)

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