乙武洋匡の「自問多答」

[対談]乙武洋匡×開沼博(2)

2013.03.08 FRI

乙武洋匡の「自問多答」


「新聞やニュースの言説をそのままうのみにするのではなく、問題とされている論理自体の妥当性をまず考えてほしい」と開沼氏

乙武洋匡「障害者を障がい者にしたところで何も解決しない」



乙武: 僕は日頃から講演などで、全国津々浦々、様々な場所を訪れる機会があるんです。大都市圏だけでなく、過疎の進む地域に行くことも少なくありません。そういう時、人口の少ない村にすごく立派な会館が建っていたりすると、以前は正直、税金の使い所に疑問を感じることもありました。でも、開沼さんの『フクシマの正義』を読んでから、少し考えが変わったんです。そういった批判めいた考え自体が、都心に住む人間ならではの視点であって、すでにズレているのではないかと。

開沼: ありがとうございます。何事もそうですが、全体のストーリーやプロセスを踏まえずに一部分だけを切り取って検討してみても、どうしてもゆがみが生じますからね。これは復興問題を見ていても強く感じることですが、「問題設定を疑う」という視点を持たなければならないと思うんですよ。

乙武: それは都会の人にとっての正論が、地方の人にとっての正論であるとはかぎらない、という視点ですよね。強者の論理だけで語ってしまい、弱者の実情や心情を忘れることがあってはならないと痛感させられました。

開沼: そう。問題設定そのものが、強者のものになっていないかを疑うべき。昨年12月の選挙にしても、原発推進派もいれば反対派もいたわけですが、彼らがどれだけ倫理的な主張をしたところで、それが実際に弱者のためになっているかどうかはまた別問題ですから。むしろ、弱者が抱えている本当の問題がないがしろにされてきてしまったのが実情です。だから選挙を通しても何も変わらなかった。

乙武: 開沼さんも著書で触れていましたが、沖縄県の首長選挙で、ある候補者がスタバを招致することをマニフェストに掲げ、話題になりましたよね。これって、都会の論理からすればまるで冗談のように聞こえるかもしれないけど、それが地域住民の希望であるなら、決して的はずれとはいえないわけです。つまり、都会の人が勝手に考えている“地方はこうあるべき”という考えをベースにすると、そもそもの論点がズレてしまう。

開沼: そのあたりは、乙武さんが日頃から発言されていることにも通じますよね。臭いものにふたをするのでは何も解決しない、と。

乙武: その通りです。たとえば「障害者」という言葉。新聞などで最近は「障がい者」と、「害」の字をひらがなにする傾向が高まっています。これには、「害」というネガティブな漢字を使うことで、障害者を傷つけるんじゃないかという配慮があるようです。ただ、実際にこんなことを気にしている障害者の方がどれだけいるか…。もっといえば、「障害者に配慮してる俺ってカッケー!」なんて思いが根底にある気がしてならないんですけど(笑)。

開沼: そうですね(笑)。僕も、「あんなところに人を住ませるな」とか「片仮名でフクシマと書くのはだめだ」とか正義感満々で語る人にうんざりしています。そういう人ほど実際に震災後の福島に行って住民の方と話をするような地道な作業をしていなかったりする。外から「自分こそが正義の味方だ」って主張されて、勝手にタブーを作られても何も解決しません。問題は表面的なことじゃなく、その内実にこそあるんですから。それを乙武さんみたいな人が、はっきりと宣言してくれる意味は大きいですよ。

乙武: 同じことは原発問題にもいえると思うんです。「原発反対!」と発言するのは簡単ですけど、本当に福島の皆さんの目線になった時、どういう意見や希望が出てくるかが重要なのではないかと。もちろん、反対は反対でもいいんですけど。

開沼: ただ難しいのは、僕にしても乙武さんにしても、こういう意見を口にすると、「弱者のために頑張っているのに!」という人の不興を買うことがしばしばありますよね? そういったことも乗り越えていかなければいけない時代なのでしょうけど…。

乙武: だからこそ、開沼さんがいうように、まずは問題の設定を疑うことから始めてほしい。議論が始まるのは、その次のステップなんですよね。

(構成:友清 哲)


【今回の対談相手】
開沼 博さん
1984年福島県いわき市生まれ、社会学者。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。著書に『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)など

関連キーワード

注目記事ピックアップ

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト