街が生まれてちょうど60年!

みんなが知らない歌舞伎町その意外なヒストリーとは?

2008.05.22 THU



写真提供/時事
キャバクラや風俗店、ホストクラブがいっぱいあって、夜になると外国人やコワい人たちがうろうろ。そんなエロくてヤバいイメージもある街、新宿・歌舞伎町がこの4月で60周年を迎えたという。最近はクリーン作戦によってすこし雰囲気が変わってきたが、もともと馳星周の『不夜城』をはじめ、数多の小説・映画の舞台にもなってきたアジア最大の歓楽街。その歌舞伎町が60年まえ、どんなふうに生まれたのか知っているだろうか。

じつは、あの一帯はむかし、新宿コマ劇場のあたりに女学校があったりするふつうの街にすぎなかった。ところが、戦争で日本の主要都市はほとんど壊滅し、新宿一帯も1945年の東京大空襲で焼け野原に。そこで国は戦災復興事業を推進したのだが、なかには民間主導で復興計画を進めた地域がいくつかあったのである。六本木や恵比寿、そして歌舞伎町などがそれだ。とくに歌舞伎町は、戦後まもなく町会長の鈴木喜兵衛を中心に、地元の人たちが映画館や劇場などの娯楽街と近代的商店街をあわせた壮大なまちづくりを計画。その目玉として現在のコマ劇場をつくり、都市計画家で早大教授や参議院議員もつとめた石川栄耀が「歌舞伎町」と命名。こうして歌舞伎町という街が生まれ、焼け野原だった東京のなかでもいち早く復興をとげたというわけだ。

そしてもうひとつ知っておく必要があるのは、その復興事業の中心にいたのが外国人、つまり戦後の日本にいた中国や台湾、韓国の人たちだったということ。実際、歌舞伎町のランドマークといえる風林会館をはじめ、コマ劇場の広場にあるジョイパックビルなどは有名な在日華僑が建てたもの。そこには彼らが戦勝国の人間だったという事情もあったのだが、いずれにせよ、あの街のコワいイメージの象徴のようになってしまっている外国人がいなければ現在の歌舞伎町はなかったかもしれないのだ。それにしても、家族そろって楽しめる街にするつもりがアジア最大の歓楽街になるとは、命名者も想像できなかったに違いない。


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