側室だらけの戦国三英傑 vs. 明治エロ四天王

真田幸村、実は性豪?日本史を彩るスケベ偉人列伝!

2016.07.10 SUN


代々子だくさんだったことで知られる徳川家(写真は家康像)。とりわけ多く子をなしたことで知られるのが、11代将軍の家斉だ。60人以上の子どもを作り、嫁入り先を斡旋する担当老中がいたほど。このころ、徳川の親戚となる大名が日本中に増えてしまったことは言うまでもない
写真:yanmo / PIXTA(ピクスタ)
英雄色を好むとはよく言ったもので、日本史を彩る偉人たちは“色”にまつわる逸話に事欠かない。とりわけ戦国時代は枚挙に暇がないほど。現在放送中の大河ドラマ『真田丸』でも、大名たちの側室や子どもがわんさか登場する。これは皆さん、毎晩相当お盛んだったに違いない!

「実際、真田信繁(幸村)は数多くの子どもを残しています。その多くが九度山(くどやま)に移って以降。徳川家康に蟄居(ちっきょ)を命じられ14年間目立ったことをしていなかったので、相当ヒマだったんでしょうね」

こう分析するのは、『歴史読本』の編集長を務める株式会社KADOKAWAの石井久恵さん。この時代、側室や子どもの数が多かったのは支配者層。とりわけ天下人クラスになると、その数は圧倒的だった。膨大な側室と子どもを有した戦国時代の三英傑は以下の通り。

●織田信長
延暦寺を焼き討ちするなど冷徹なことで知られる信長だが、女性関係は意外にジェントル。たとえば側室のお鍋の方は「夫が戦死して困っている」と直談判され、もらい受けることにしたとか。最終的には9人の妻をめとり22人の子をなしたが、男色を好んだ逸話も多く残している。

●豊臣秀吉
宣教師ルイス・フロイスをして「並外れた女好き」と言わしめた好色家だが、後継ぎを作るためにあっちこっちで試していた…という見方もある。その好みは偏っていて、公家や大名の血筋を好んだらしい。いわば“お嬢様”好き。正室の北政所、側室の茶々の方を含め、13人の妻をめとったが、血縁を繋いで成人した男子は秀頼ただひとりだった。

●徳川家康
17人の妻をめとり、16人の子をなし、長きにわたる徳川家繁栄の礎を築いた。身分を問わず関係を持ったとされるが、「2人の正室に振り回されたから、お嬢様はウンザリ」という説もある。ちなみに子どもの半分は、実は齢50を過ぎてからもうけた。老いてなおパワフルな御仁だったようだ。

とはいえ戦国時代。欲や好みにかかわらず同盟相手から相手をあてがわれたり、人質要員として子どもを増やす必要に迫られたりするなど、家族は外交カードという側面があった。それゆえに子どもや側室が多かったとしても、一概に「スケベだった」とは言いにくいようだ。

さて、夜の営みと政治が密接に結びついた戦国時代に対し、スケベ偉人を数多く輩出した時代があるという。それが、幕末から明治にかけて。「戦などで血が絶える可能性がある時代に比べ、子どもや奥方が多いのは、単純に好色家だからと考えられます」(石井さん)とのこと。そこで、明治時代の“四天王”を列挙してもらった。

●伊藤博文
「金も家もいらない。ただ女遊びがしたい」と言い放ち、実際に死後ほとんど貯蓄がなかった初代内閣総理大臣。華族のお嬢様である戸田極子を鹿鳴館の裏で追いかけ回した逸話や、自分の家でことを終えた後、正妻から妾にお土産を渡させるという豪放ぶり。日本初の女優として知られる川上貞奴の芸者時代、最初の夫となって世話をしたことでも有名。

●徳川慶喜
本当に女好きで、床に相手がいないと寝られないという状態だった最後の征夷大将軍。とはいえ子を多くなしたのは明治に入ってから。悠々自適な生活のなかで、最終的には23人の子を作った。

●松方正義
第4代、6代内閣総理大臣で、明治政府の元老。明治天皇に子どもの数を尋ねられたとき、「調べて、後日報告いたします」と答えたほど子だくさんだった。正妻と妾の子どもを合わせて26人もいたとされる。晩年にできた子どもは、恥ずかしいから孫として届け出たとか。

●桂太郎
3度総理大臣になり、3度結婚した豪傑。いつも笑顔を絶やさず気配りができ、そのうえ眉目秀麗で社会的立場もある。3拍子揃って、女には事欠かない人物だったとか。かくして最後は愛人宅で亡くなったため、もしかすると腹上死では?…との説も残っている。

これらの面々が登場する歴史作品は、いたってシリアスに描かれることが多いだけに、“夜の事情”が克明に描かれることは少ない。とはいえ偉人だって人間。歴史のロマンに夜のロマンを重ねて見ると…歴史を彩るヒーローたちの違った側面が見えてくるかも?

(吉々是良)

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