「これまでは、とにかく失敗だらけでした」
芸歴25年をかけた準備。古坂大魔王が「ピコ太郎」をバズらせたのはただの運ではなかった
幸運にも、大金を手にした人はどんな人生を送るんだろう?
「一攫千金」した人に話を聞いてみたい…!
幸運といえば今から3年前の2016年夏、1本の動画で世界的な有名人になった「ピコ太郎」。2019年1月現在、「PPAP」の動画再生数は約4億回を超えました(Ultra Musicと公式チャンネル合算)。
その生みの親である古坂大魔王さんは、人気芸人・くりぃむしちゅーなどとほぼ同期。まわりがどんどん売れていくなか、世間からは「消えた芸人」として扱われていました。
そんな彼が、たった1本の動画のバズでどんな変化を経験したのか? 今回は、その話をしっかりと聞いてきました!
〈聞き手:福田啄也(新R25編集部)〉
「ピコ太郎」の月収が、25年間の収入と同額だった
福田
古坂さん
My favorite video on the internet https://t.co/oJOqMMyNvw
福田
実際このブレイクでどのくらい収入が増えたのかを教えていただけますか…?
古坂さん
ただ、ボクがこれまで25年間やって稼いだ収入と、「ピコ太郎」の月収が同額だったことがあります。
福田
古坂さん
ただ、結婚と出産があったので、そこにちゃんとお金は使いました。あとは、スタジオの機材を整えたり部屋を少し広くしたりしたくらいです。
最も変化があったのはスケジュールですね。
福田
古坂さん
また、台湾に行ったときには、新聞やWEB取材が1日で40社もあったんですよ。
ブームから2年半。「PPAP」は今も世界から求められている
福田
日本では、すでに飽きられてしまっている印象も受けますが…
古坂さん
たしかに以前のような勢いはありませんが、最近は「PPAP」って新しい捉え方をされているんですよ。
たとえば、「PPAP」の歌詞を考察する論文が出ています。また、科学的に「PPAP」は子どもを寝かしつけやすい曲に認定されたんですよ。
福田
古坂さん
1周まわって、伝統芸能みたいなポジションになってきました(笑)。
『ボキャブラ天国』の仲間が売れていく…「音楽でヒットを飛ばせばイケるかも」?
福田
そもそも古坂さんは、「底ぬけAIR-LINE」として『ボキャブラ天国』(フジテレビ系)に出演されていましたよね。
ただ、2000年代に入ってからは、テレビであまり見る機会がなかったような気もします。
古坂さん
『ボキャブラ天国』のブレイクが収束してきて、お笑いの流れが『爆笑オンエアバトル』(NHK)に移っていた時期、くりぃむしちゅーさんやネプチューンさんはどんどん売れていきました。
しかし、ボクらにはテレビの仕事があまり入ってこなかったんです。
福田
古坂さん
「これは何かしないといけないな」と思ったとき、ヒントになったのがバブルガム・ブラザーズさんでした。
福田
それがどうしてヒントに?
古坂さん
漫才師としてはそこまで有名じゃなかったんですけど、「WON'T BE LONG」の大ヒットで一気に芸能界でも一目置かれる存在になりました。
だから、ボクらもそれに近いことをやろうと思ったんです。
福田
古坂さん
それで2003年にお笑いを一時休止して、「ノーボトム!」というユニットを組んで音楽活動に専念しはじめました。
古坂さん
当時の音楽業界って、作詞、作曲、編曲、歌手、演奏など分業制が多く、自分でスタジオを用意して作詞、作曲、編成などをすべて1人でやっている人がほとんどいなかったんです。
だから、作曲からレコーディングまで1人で行い、かつそれをプロレベルに持っていければ、絶対に勝てると思ったんですよね。
福田
古坂さんは「お笑い芸人は辞めて、自分の好きな音楽で海外デビューをし、世界を驚かせてやりたい!」とプレゼンしましたが、出資には至りませんでした
古坂さん
「人より10歩先に行っているのは、2歩後ろにいる人と一緒だった」
古坂さん
でも結果として、ブレイクにはいたりませんでした。
福田
古坂さん
当時は「人より10歩先に進んでいる」ことが大事だと思っていたのですが、10歩前に進んでいるって、一見先に進んでいるけど、人より2歩後ろにいるってことだと気づいたんです。
福田
古坂さん
それって商売にならないんですよ。
結局、歩みが遅い人と変わらないんです。
古坂さん
お祭り音楽とテクノ音楽を合わせたものを作ってみたけどダメ。あとは、コスプレ・テクノ・バンドを作ってみたけど、これもハマらなかった。
でも、そこから数年経って2010年前後になったら、ようやくまわりがこの魅力に気づきはじめたんですよ。
今考えると、本当に先を行きすぎたなあ…
何でも手をだしてみる。失敗だらけの状況から生み出した「ピコ太郎」
古坂さん
千葉県のアイドルをプロデュースしたり、ゲーム音楽を作ったりしたこともありますね。
周囲から「迷走している」と言われましたが、とにかく何でもやってみる姿勢は持っていてよかったかなと。
「ピコ太郎」もそのなかで生み出されたものです。
福田
それっていつごろなんですか?
古坂さん
「ピコ太郎」ってかわいい名前で舞台に呼ばれて、出てきたのがヤクザみたいな見た目の男。そのギャップがよかったのでしょう。
これは自分のなかでやっと売れるはずだと確信できました。
福田
古坂さん
ベタな見た目とシュールな笑い、そして本格的な音楽。ボクが好きだったものがすべてかみ合った実感がありました。
古坂さん
福田
古坂さん
ただ、当時審査員だった立川談志師匠に「オレにはまったくよくわかんなかったけど、元気があっていいじゃねえか。イリュージョンだよ」って褒められたんですよね。
「ピコ太郎」のヒットは、タイミングが完璧だった
福田
これってどうしてなんですか?
古坂さん
「PPAP」ってクイズなんです。見ている人が、「『PPAP』って何だろう?」って聞きはじめて、最後に「ペンパイナッポーアッポーペンってそのまんまかい!」ってなる。
だから、このオチがわかってしまったら面白くないじゃないですか。
福田
古坂さん
そしたらあるとき、知り合いのプロデューサーが「ウチの子どもが『PPAP』好きなんだけど、あのネタって音源とかないの? ないなら絶対にCDとか作ったほうがいいよ」って勧めてきたんですよ。
「それならメジャーデビューさせようかな」と思って、2016年の年明けにレコード会社やテレビ局の人に企画を持ちこみました。
でも、どこも採用してくれなかったんです。
福田
古坂さん
結局、自分で動画を作ることしたんですが、この編集にはかなり時間をかけましたね。
朝昼夜と時間帯を変えて見るのはもちろん、暗い部屋で見るとどんな印象を受けるかなど、何度も検証を繰り返してようやく2016年8月25日にアップしたんです。
ただ、今考えるとこのタイミングがよかったんだなと思います。
福田
古坂さん
その時期って文化祭やハロウィン、忘年会のネタ探しを始める時期なんです。
福田
古坂さん
だから、それだときっと夏前には飽きられていたかもしれません。
ジャスティン・ビーバーにシェアされる前に、バズらせる仕掛けを用意していた
福田
古坂さん
実はジャスティン・ビーバーにシェアされる前に、こちら側からもバズらせるための仕掛けを用意していたんです。
福田
古坂さん
古坂さん
これはどうしようか…と思ったとき、ずっとプロレスが好きだったので、煽ってみることにしました。
福田
古坂さん
「登録まであと10分」「あと9分」って細かく投稿していって、いざライブの告知をしたらめちゃくちゃ話題になったんですよ。
福田
古坂さん
古坂さん
すると、一気に台湾などのアジア圏でヒットしたんです。
そしたら次はアメリカでも話題になった。バットマンの作者が、「バットマンがピコ太郎をビンタしている絵」を書いてくれたんですよ。
そんな流れがあって、とどめがジャスティン・ビーバーだったんです。
福田
古坂さん
でも、新人のころの自分だったら、ここまで火が大きくならなかったと思います。
せいぜいキャンプファイヤーくらいかな。
福田
最後に、自身が苦労の末に成功をつかんだ経験から、20代のビジネスパーソンに伝えたいことはありますか?
古坂さん
これまで「ピコ太郎」を連れて、あらゆる場面で「PPAP」を披露してきました。
ときにはオーケストラと一緒にやることがあったのですが、ボクが一度ゲームミュージックのオーケストラアレンジをやったことがあって、その経験をピコ太郎に教えてあげたので、問題なく見せることができました。
また、テレビに出るときもどのように振るまうべきか理解していたので、臨機応変に対応できたんだと思います。
ボクは芸歴25年をかけて、この大ブレイクを生み出す準備ができていたんだなって今だったら思いますね。
このインタビューのきっかけは、「1本の動画で一攫千金を得た男」というテーマでした。
ですが、インタビューを通してわかったことは、これは決してひとつの運が導いた結果ではなかったということ。「人より10歩先に行く姿勢」を持ち、あらゆることに挑戦して失敗して、その先に待っていた結果が「ピコ太郎」だったのです。
まさに「ピコ太郎は一日にしてならず」。25年の経験の先に、大ブレイクがあったんですね。
〈取材・文=福田啄也(@fkd1111)/撮影=森カズシゲ〉
古坂大魔王さんからのお知らせ
本日から販売開始する『ピコ太郎のつくりかた』。今回のインタビュー内容以外に、「ピコ太郎」の音楽性やブームになった要因などがくわしく書かれております。興味を持った方はぜひご一読を!
日本でも、この話題から「PPAP」を知った、という人がほとんどだと思います。