ビジネスパーソンインタビュー
堀江貴文著『時間革命』より
他人に時間を奪われるのは、「生きながら猛獣にゆっくりと食い殺されている」ようなものだ
新R25編集部
「時は金なり」ということわざがあります。
「時間はお金と同じくらい貴重で大切である」という意味ですが、これに対し、堀江貴文さんは異を唱えています。
『時間革命 1秒もムダに生きるな』ぼくに言わせれば、こんなバカな考え方はない。
この言葉は、時間とお金を「同等に価値があるもの」だとしているからだ。
人間にとって、何より尊いのは「時間」である。
お金など比べものにならない。
堀江さんにとって時間は、お金より大切で、“人生でもっともかけがえのないモノ”だと言います。
そして多くの人はその時間を浪費してしまっているとも。
人生をかけて「時間の質」を上げることだけを考えてきた堀江さんが、みんなに伝えたい「時間の価値観」。
その内容をまとめた『時間革命 1秒もムダに生きるな』より3記事を抜粋してご紹介します。
きみは「自分の時間」を生きているか?
時間には2種類しかない。
「自分のための時間」と「他人のための時間」である。
「自分時間」とは、好きな仕事、趣味、やりたいこと、たのしいイベント、気の合う仲間との飲み会などである。
一方、「他人時間」とは、やらされている仕事、通勤、したくもない電話やメール、気を遣う飲み会といったところだろうか。
当然ながら「自分時間」が多ければ多いほど、あなたの人生の質は高くなる。
逆に、「他人時間」ばかりを過ごしている人が、自分の人生に満足できていることはまずない。
「自分時間を増やす+他人時間を減らす→人生の質が高くなる」
ぼくが語りたいことの核心は、このシンプルきわまりない事実にある。
これこそが時間を支配するための、たった1つの方法なのだ。
まず、あなた自身の1日を振り返ってみてほしい。目覚めて活動している時間のうち、本当の意味で「自分時間」だと言えるのは、どれくらいあるだろうか?
16時間? 8時間?…そんなにない? 2時間? 1時間?…ひょっとして…30分未満?
いずれにしろ、おそらくかなり少ない割合なのではないかと思う。
何よりもまず深刻なのは、ほとんどの人は、自分の人生が「他人のための時間」で埋め尽くされていると気づかずに生きているということだ。
あるいは、気づいていても、見て見ぬ振りをしているのかもしれない。
たとえばいま、あなたの部屋に凶暴そうな猛獣が入ってきて、こちらを見ながら唸り声をあげているとしよう。
あなたはきっとその状況から逃れるための方法を必死で考えるだろうし、猛獣が襲いかかってくれば全身をバタつかせて抵抗するはずだ。
死んでしまえば、自分に残された時間は、一瞬にしてすべて奪い去られてしまう。
そんなのはごめんだ。だから、頭をフル回転させて、その危機を回避しようとする。
当然のことである。
一方で、「他人時間」に対して同じような脅威を感じる人は、どういうわけかほとんどいない。
ぼくにしてみれば、他人のせいで時間が奪われている状態というのは、「生きながら猛獣にゆっくりと食い殺されている」のと同じだと言っても過言ではない。
それなのになぜ気づかない? なぜ平気でいられる? ぼくには不思議でならない。
ぼくは手元にある時間を少しでも「自分時間」として確保したいし、人の時間を奪うことに無頓着な行動に対しては、言いようのない不快感を抱く。
実際、変な人とは距離を置いて、なるべくつき合わないようにしているし、時間を奪おうとする人には声を荒らげてキレることもある。
いろんなところで語ってきたことだが、典型的なのは、「平気で電話をかけてくる人」だ。
本人は何気なく電話をかけているだけでも、ぼくからすると、いきなり人生に割り込んできて、「他人時間」をねじ込もうする行為にしか見えない。
だからぼくはよっぽどのことがないかぎり、スマホに着信があっても、電話に出ない。
これは決して非難されることではないはずだ。
猛獣が部屋に入ってきたときと同様、ぼくは自分の人生を守っているだけなのだから。
だからぼく自身も、誰かほかの人にとっての「時間泥棒」にはなりたくない。この記事だって、「堀江の言いたいことはだいたいわかった」と思えば、最後まで読む必要はない。
「時間=人生」を突き詰めて考えれば、そういうことになる。
まずは日頃から「これは自分時間? それとも、他人時間?」と習慣的に自問してみるといいだろう。そうすれば、1日のほとんどが「他人時間」で埋め尽くされていることに愕然とするはずだ。
最初はそれでいい。すべてはそこからはじまるからだ。
懲役1年9カ月の刑務所生活でも「自分の時間」を過ごした
ぼくが「他人時間」「自分時間」の違いをはっきりと意識するようになったのは、刑務所での経験が大きい。
かつてぼくは証券取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕され、裁判の結果、懲役の実刑判決を言い渡された。
そして、東日本大震災から数カ月後の2011年6月20日から、1年9カ月にわたって刑務所に収監された。
刑務所というのは、「他人時間の極致」のような場所だ。
「時間を取り上げることが刑罰になる」という発想の背後には、すぐれた人間的洞察があると思う。時間を削り取られるというのは、人間にとって決定的なペナルティなのだ。
これを上回る刑罰は、その人間の残り時間そのものを根こそぎ消し去ってしまうこと、つまり死刑しかない。
長野刑務所でぼくが配属されたのはいわゆる養護工場であり、受刑者の大半が、認知症の老人や身体障害者で占められていた。
ぼくはそこで衛生係という役割を与えられた。
ようするに、介護士さんのような仕事である。一人でお風呂に入れない、うまく排泄できない、身のまわりのことが自分でできない―そんな受刑者たちの介助をしなければならないのだ。
「えっ? あのホリエモンが…他人の介助!?」と驚く人もいるだろう。
しかし、いちばん面食らったのは、誰よりもぼく自身だ。
自分のやりたいことをやれず、一日中を他人のために費やさねばならない懲役生活がはじまったとき、「これまでのぼくは本当に『自分のための時間』だけを生きていたのだな」と実感させられた。
衛生係の仕事だけではない。一緒にいたくもない人間たちと生活をともにし、他人が決めた献立の食事を摂り、誰のためになるのかわからない単純作業をやり、氷点下の部屋で震えながら眠る―自分のための時間がない!
メンタルは決して弱いほうではないが、このときばかりはかなり堪えた。
しかし、同時に悟ったことがある。
「会社がイヤだ」「仕事が忙しすぎる」「上司に腹が立つ」「家族が嫌いだ」―そんな不平を口にしながら、いまの場所から一歩も動かない人の存在が、かつてのぼくにはまったく理解できなかった。
いったい何がそんなにつらいのか、なぜ動き出さないのかと思っていた。
けれども、刑務所に入ったことで「ああ、彼らはちょうどこんな心持ちなのか」と腑に落ちたのである。
「他人時間を生きる」というのは、監獄に入っている状態によく似ている。
とはいえ不思議でならないのは、世の中の大半の人が、自分からその“監獄”に入ったくせに、そこから出てこようとしないことだ。
扉には鍵などかかっていない。いつでも外に飛び出せる。にもかかわらず、他人時間の“牢屋”のなかで、「ここは自由がない!」「退屈でつまらない!」と文句を垂れているのである。
皮肉なものだなと思った。
刑務所に入れられて、物理的な自由を奪われているぼくのほうが、「他人時間の牢屋」から抜け出す方法を知っており、シャバの空気を吸っている世間の人たちのほうが、かえって“牢屋”に閉じこもっているのだから…。
実際、つらい状況はそれほど長く続かなかった。
服役中にもぼくは、文章を手紙でやり取りしてメルマガの更新も休むことなく続け、少しずつ「自分時間」を増やす行動を起こしていったからだ。
自分の興味がおもむくままに、1000冊以上の本を読破し、それまでの人生とは比べものにならないくらい多くの映画も観た。
結局、時間を自分のために使えるかどうかは、あなたしだいだ。刑務所にいたぼくが言うのだから間違いない。
努力、成果、お金に「働く意味」を求めるかぎり、「他人時間」に食い荒らされる
ぼくはいつもスケジュールを詰め込めるだけ詰め込んで、朝から晩まで動き続けている。
ぼーっと休んだり、くよくよと悩んだりしている暇がない。
いつも目の前のことに夢中で、「いま、ここ」の自分しかいない状態だ。
だからといって、自分は「立派だ」とか「偉い」などとは1ミリも思わない。
なぜなら、ぼくは主観的には「ただ遊んでいる」だけだからだ。
別に「社会をよりよくしたい」と願いながら、歯を食いしばって激務をこなしているわけではない。
そもそも「労働=つらいけど尊いこと」などというのは、前時代的な考えでしかない。
たしかに、もし食糧をつくったり獲ったりする人がいなくなれば、人間の命が続かなくなってしまうから、これはぼくたちにとって貴重な労働だとは言えるかもしれない。
しかし、こうしたいわゆる第一次産業(農業や水産業など)を除けば、ほとんどの労働は尊いものだとは言えないだろう。
「労働は尊いもの」とか「働かざる者、食うべからず」といった固定観念は、おそらく農耕社会に由来している。江戸時代の日本は8〜9割が農民だったはずだし、戦前にも半分くらいが農業従事者だったはずだ。
そういう社会では、「どれだけつらくても我慢して、協力しながら働くことが善」という職業倫理がまかり通ることになる。
しかしいまや、専業農家なんて人口のごく一部だ。
農業技術にもイノベーションが起きたから、わずかな人が働きさえすれば、ほとんどの人の食べ物には困らないし、外国から輸入もできる。
もはや「労働=尊い」の根拠はとっくに消滅しているのだ。
それにもかかわらず、いまだに多くの人が働くことに「意味」を求めているのは、長年の“刷り込み”があるからだろう。
「身体がボロボロになるまで深夜残業して、圧倒的な結果を出しました!」
「血の滲むような努力をして、社内No.1のトップセールスに登りつめました!」
「勇気を出して起業して、膨大な利潤を手にしました!」
それがどうしたというのだろう?
「どれだけがんばったか」「どれだけ結果を出したか」「どれだけ儲かったか」―それらは、あなたの仕事の価値を左右しない。
努力、成果、お金…そんなものに「働く意味」を求めているかぎり、あなたの人生は「他人時間」に食い荒らされて終わっていくだけだ。
現代においては、仕事はどこまでも趣味的なもの、自己満足でしかない。だからこそ、その価値はただ1つの点―「たのしいか、たのしくないか」にしかない。
ぼくはこれからもずっと、「たのしい仕事」しかするつもりがない。
「イヤな仕事」「苦しい仕事」はやらないと決めている。なぜなら、すべての仕事は本来、「やらなくていいもの」だから―。ごくあたりまえの話ではないだろうか。
ただ、各人が好き勝手に振る舞ったとしても、結果が同じになるわけではない。個人の能力には当然ながら差があるし、「運」や「巡り合わせ」の作用も大きい。
ちょっと古い言い方をすれば、「勝ち組」と「負け組」はどうしても出ることになるはずだ。
それでも問題はない。
みんなの目的が、「勝つこと」ではなく、「たのしむこと」になっていれば、「負けた人たち」も決して不満は持たないはずだ。
必要なのは、結果の差そのものを無くして、「悪しき平等」をつくることではない。
いまの問題の本質はむしろ、「イヤな仕事をして、負けている人」がいることなのだ。
誰もが「たのしい仕事」をするようになれば、たとえ結果がいまひとつであっても、そこには確固たる満足感が残るはずだ。
「負けても満足できる競争社会」をつくるためには、何よりもまず「仕事=つらいけど尊いもの」という思い込みが邪魔なのだ。
人生を幸せに過ごすために「自分の時間」をもっと意識しよう
「時間こそは、誰もが平等に手にできる、唯一の『資産』なのである」と堀江さんは『時間革命』の冒頭に記しています。
同書は、その時間という資産の投資先を教えてくれる指南書。
「多動力」と呼ばれる堀江さんの時間の使い方を学び、「自分の時間」を意識してみましょう!
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