堀江貴文・藤田晋著『心を鍛える』より

「もしあの連絡をスルーしていたら、会社は消滅してたかも」若かりし藤田晋と堀江貴文の出会い

仕事
仕事で大きな壁にぶち当たることってありますよね。

そんなとき、「一流のビジネスパーソンならどのように乗り越えるのか?」を知ることで、なにか解決の糸口が見つかるかもしれません。

そこで、実業家・堀江貴文さんとサイバーエージェント社長・藤田晋さんの初の共著『心を鍛える』から、「苦境で考えていたこと」や「バッシングの受け止め方」などを一部抜粋してお届けします。

お二人はなぜ、苦境でもくじけることなく“強いハート”を持ち続けられたのか。時代を築いた名経営者の頭のなかを覗いてみませんか?

藤田晋「少し割高になっても堀江さんに自ら作ってほしい」

堀江さんとの出会いについてお伝えしておきましょう。

なぜ私たちが「ビジネスパートナー」ではなく、「盟友」と形容されるのか。

私たちの心の距離感を少しでも感じ取っていただければうれしいです。

1998年3月に弊社を立ち上げた数ヶ月後のこと。

オン・ザ・エッヂ」(現ライブドア)の社長をしていた堀江さんに会い、「クリック保証型広告配信システム」の新規開発を依頼することになります。

私はホームページを通じて、堀江さんにアポイントの依頼をしました。

初対面の堀江さんは野心にあふれており、インターネット業界や日本経済がどうなっていくか、今と同じように堂々と“レクチャー”をしてくれました。

また、話し込むうちに、過去の私たちの接点を発見することもできました。

私が新卒で入社をした「インテリジェンス」時代、採用管理システム「IEシステム」という商品をよく扱っていたのですが、その開発者が堀江さんだったのです。

その「IEシステム」という商品は、当時の最先端のシステムでした。

ホームページから申し込んできた就職希望者を、インターネット上で管理できるのです。

私は、このサービスが気に入り、オリジナルの企画書を作って次々に自分の顧客に販売していました。

その生みの親が、まさか堀江さん、その人だったとは!

一方、当時の堀江さんは「インテリジェンスで、IEシステムをバンバン売ってくれる人がいるけど、無茶な要求ばかりしてくるなぁ」と感じていたそうです(当時のサービスには不具合も多くあったのです)。

それから私たちは一気に意気投合します。

ちなみに、オン・ザ・エッヂから提示された当時の見積もりには2種類ありました。

納品後、一括で代金を支払って終わりのパターン」と、「パートナーとしてサイバークリックの収益を分け合うパターン」のどちらかを選べたのです。

また、堀江さん自らがプログラムを書く場合と、ほかの人が作る場合で値段が違っていました。

私は少し考えて、パートナーとして売上を分け合うパターンを選びました。

そして、「少し割高になっても堀江さんに自ら作ってほしい」と頼んだのです。

そのとき、すでにサイバークリックは販売好調なことがわかっていたので、「一括で代金を払っておしまいのパターン」を選ぶほうが収益的には有利でした。

でも、「収益を分け合うパターン」をチョイスしたのは、堀江さんと妙にウマが合ったことと、今後の運用を考えてのことでした。

このときの私の読みは本当に正解だったと、自分を褒めてやりたいです(笑)

そして98年9月。

会社設立から半年後にして、堀江さんが開発してくれたサービス「サイバークリック」をスタートさせることができました。

それと同時に、私はこのサービスに絞り込んで、会社を拡大させることを決意したのでした。

「サイバークリック」の完成度は非常に高いものの、初期にはつきもののトラブルも発生していました。

そのネットワークがあっという間に拡大したため、サーバが頻繁にダウンしたのです。

「堀江さん、またシステムがダウンしてしまいました!」社内で手に負えなくなると、申し訳なさを感じつつも、堀江さんに助けを求めました。

堀江さんは、分刻みで活躍する超売れっ子の天才プログラマーでしたが、バイクで六本木から原宿のオフィスに来てくれました。

そしてイヤな顔ひとつせず、まるで神業のような速さでトラブルに対処すると、颯爽と長髪をなびかせて帰っていくのでした。

何度助けてもらったかわかりません。

営業やマーケティングが得意な私が「こういうのがあれば売れますよ。流行りますよ」と提案すれば、技術やデザインが得意な堀江さんが「そんなの、作れますよ」と胸を張って答える。

いわば、「売れますよ」「作れますよ」の関係でした。

このように、堀江さんと私はたびたび共同事業を立ち上げ、お互いに切磋琢磨するようになります。

その頃から彼は私以上に大口を叩く気質で、大物感を漂わせていました。

起業したてで売上もほぼないような時期から、「ヤフーは抜ける」と言っていた堀江さんの姿をよく覚えています。

さすがにヤフーを抜くまでには行きませんでしたが、彼は実際ぐんぐんと頭角を現し、時代の寵児となっていったのです。

「まだ実績もお金もない」という人は、“大口”を叩いてみるのもおすすめです

恥ずかしさが先に立つ場合は、もしかすると頑張りが足りないのかもしれません。

堀江貴文「会うべきかためらったけど、不思議と『会ってみよう』と思った」

藤田さんが、僕との出会いを具体的に話してくれた。

だから、披露できるエピソードがなくなってしまって困っている。

なんとか頑張って記憶をたぐりよせてみよう。

あれは1998年、藤田さんが24歳、僕が25歳のとき。

彼が企画したクリック保証型のネット広告「サイバークリック」のシステムを作ってほしい、という1通のメールがオン・ザ・エッヂに舞い込んできた。

今だから明かすが、藤田さんからのメールの文面は素人っぽさがあった

会うべきかどうか、一瞬ためらったくらいだ

「インターネットのことはそれほど詳しくないんですが、盛り上がってるっぽいんで起業した者です」

僕なりに意訳すると、そう受け取れる内容だったのだ(無論、彼に悪気はなかったはず)。

当時の僕は、すでにかなり忙しい日々を過ごしていた。

高慢に聞こえるかもしれないが、すでに「仕事を選んでいた」時期でもある。

いつもなら、そんなメールはスルーするところだが、不思議とそのときは「会ってみよう」と思ったのだ。

あのときの自分のカンを褒めてやりたい

社員2人を連れて六本木の20畳のオフィスにやってきた藤田さんは、一見ぼんやりとして見えた。

だが話してみると、人の懐に入り込むのがうまく、いかにも営業ができそうだった。

もしあのとき、藤田さんからのメールをスルーしていたら、オン・ザ・エッヂは消滅していたかもしれない

なぜなら、藤田さんが持ちかけてくれた「サイバークリック」は、当社を大きく飛躍させてくれるきっかけとなったからである。

それほど「サイバークリック」は売れた。

というか、藤田さんが鬼のように売ってくれた。

藤田さんは独特の癒しキャラで、クライアントを次々と口説き落としてくる。

おかげでこちらは、毎日のようにシステムを改良し、毎週のようにサーバを増設する羽目になった。

その後、藤田さんとはプライベートでも飲みに行くようになった。

といっても飲み屋でくだを巻くわけではない。

会社やネット事業の将来について何時間も語り合った。

共同で会社も設立したし、スペインに子会社を設立する際には現地視察にも赴いた。

そのときの話もしておこう。

当時、スペイン在住のとある商社マンが「サイバークリック」を見て、「スペインで子会社をやらせてほしい」というオファーをくれた。

そこで資本金の大部分を当社が出し、サイバーエージェントはマイナー出資という形で、「Cyberclick Agent S.L.」を設立した。

会社の登記などもあったため、僕は藤田さんとバルセロナへ渡った。

しばらくして、その初の海外子会社は軌道に乗り始めた。

しかし、それよりも僕の記憶に残っているのは、当時の藤田さんにかけられた言葉だ。

バルセロナの空港で彼と待ち合わせたときのこと。

え?堀江さんはエコノミーで来てたんですか?

そう言われたのだ。

もちろん彼はビジネスクラスで来ていた。さすがである(笑)

結論。

高みを目指すなら、志の高い人とつきあうことだ

周りの志が高いと、自分自身も自動的に頑張りたくなるし、モチベーションも保つことができる。

心の強さは、伝染するのだ

IT業界を牽引してきた“盟友”が初めて語り合う「これまで」と「これから」

心を鍛える

心を鍛える

藤田さんは書籍の冒頭で、「『自分は心が弱い』と思う人でも心配することはありません。『ハートの強さ』は、努力や意識の持ち方次第で、後天的にどんどん伸ばしていくことができるはずです」と言います。

10代〜40代の4章立てで、お二人の「生い立ち」「起業」「キャリア」「未来のこと」を語り尽くす『心を鍛える』は、“どの時期”に“どのような試練”があって、それを“どう乗り越えたのか”を知れる一冊。

行き詰まったときに読めば、“強い心”を持って再出発するための新しい視点や発想が、きっと浮かんでくるはずです。
〈撮影カメラマン=HARUKI〉