「絶対に生きる!絶対に治す!」

【コラム】想像を絶する激痛の連続。それでも僕が、ハイリスクな治療法を選んだワケ

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29歳で白血病に侵されながら、生きつづけるという強い希望を胸にセカンドオピニオンを受けていた蝦名さん。しかし、まわった6件の病院ではともすべて“余命3ヶ月”という宣告を受けてしまいます。
6月からスタートした蝦名聖也さんのコラム。本日から3日連続でお届けする後半では、想像を絶する過酷な治療を通じて手に入れた「人生を幸せに過ごすための思考法」について書いていただきました。

7回目のセカンドオピニオンで、消えかけていた小さな光が希望に変わった

6つの病院にセカンドオピニオンを受けに行きましたが、結果はすべて「余命3ヶ月」の見解。

わずかな希望を胸に見つけ出した7つ目のセカンドオピニオン先は、関西でした。

原則セカンドオピニオンは平日しか行われないため、もし行くとなれば、東京に住む家族は仕事を丸一日休まなければいけない。父や兄にこれ以上仕事を休んでもらうのは申し訳ないと思っていたのですが、結局は家族総出で関西まで行ってくれることに。

そんな家族の想いが嬉しくて、温かくて、涙が止まりませんでした

無菌室にいる僕は、当然病院に行くことができません。お金に変えられるものではないかもしれないけれど、“心は一緒に病院へ行っている”という気持ち、そして“前進(GO)”という強い想いを込めて、50万円を母に渡しました。
離れていても心はひとつ。そう思いながら迎えた、2016年11月28日(火)13時

兄から着信が入りました。これがセカンドオピニオンのラストチャンスだと覚悟を決めていた僕は、期待と不安、緊張、恐怖など様々な思いが入り混じる中で、目を閉じ、深呼吸をしながら「大丈夫、落ち着け!」と自分に言い聞かせて電話を取りました。

先生はしばらくの間、僕が作った自分の白血病に関する資料と血液データを丁寧に見たあと、話しはじめました。

「まだ直接お顔を拝見していないので何とも言えないのですが、私なら50%以上の確率で聖也さんを長期生存させてみせます

「本当ですか!?」

そう声を震わせながら動揺する両親と兄。

先生の発言は、これまで散々病院を回っては、幾度となく聞かされてきた「余命3ヶ月」という見解と、あまりに乖離していました。

その後先生は、これからの抗がん剤治療や放射線治療、移植手術の内容、起こり得るリスクや後遺症などについて、丁寧に伝えてくれました。ひと通りの説明が終わると、電話越しの僕に向かって、先生は温かい口調で最後にこう伝えてくれました。

聖也さん。私は100%あなたを治すと言いきることはできません。しかし、私にできないことは、他の医者にもできないと思ってください

言い換えるならば、“自分より優れた医師はこの世に存在しない”ということです。

現実にも、ブラックジャックは存在した。そんな感動と興奮を覚えながら、声を震わせて「ありがとうございます」とお伝えしました。

これまで小さな光でしかなかったこの思いが、現実の希望に変わった瞬間でした。

電話越しではあったけれど、家族の心が絶望の殻を破ることができた空気を感じたと同時に、家族一丸となって諦めずに進んできて、本当に良かったと思えました。

僕は、何事も諦めずに強い気持ちで前進しつづければ、どんなことであっても必ず光が見えてくると信じています。

学生のときも、俳優のときも、サラリーマンになってからも。そして、たとえ余命を宣告された病気に侵されようとも、その気持ちは変わりませんでした。

人は信じることを諦めない限り、必ず報われる。だって、僕は余命3ヶ月と宣告されても、いまこうして思いをみなさんに伝えることができているのですから。

たとえ1%でも可能性があるのなら。生きつづけるために選んだハイリスクな治療法

僕が行うことになったのは、「ハプロ移植」という移植方法でした。

これは、一般的に行われるHLA(白血球の型)が完全一致して行われる移植手術と比較すると、非常にハイリスクなものです。

別名、“半合致移植”とも言われており、文字通り、HLAが半分しか一致していないドナーさんから造血幹細胞の移植を行います。そのため、副作用が起きる可能性が高く、移植そのものが成功したとしても、車椅子生活や寝たきりの生活になる可能性が非常に高いものでした。

さらに、皮膚障害や臓器障害の併発によって、死亡する可能性も高くなる。まさに自分の命をかけた治療でした。

それでも、この手術を決心したのはなぜか。

それは、余命3ヶ月を宣告されてから、ずっとこう心に決めていたからです。

1%でも生きられる可能性があるのなら、僕は必ずその1%になってみせる

もし寝たきりになっても、口を使って絵や文字を書ければいい。もし、目しか動かせなくなっても、今の時代ならパソコンを操作することだってできる。

僕がどんな状態であっても、生きることさえできていれば、「今、生きることができて幸せだ」と他の人に発信して、勇気を与えることができる。人のために生きれる可能性がある。

僕はそんなふうに前向きに自分を鼓舞していました。

しかしその治療は、精神的にも肉体的にも想像以上に壮絶なものでした。

想像しうるすべての痛みが同時に起こる、想像を超えた過酷な治療

治療期間中は、人混みに行くことができないのはもちろん、病院内の無菌室から出ることもできません。先生と看護師さん、家族以外とは誰にも会うことができない…。

人と関わることが大好きだった僕にとって、直接人と話をする機会が激減することは何より辛いことでした。
また、毎日のように発生する嘔吐、頭痛、胸焼け、腹痛、下痢、口内出血、高熱、血尿、腰から下麻痺、震え、痺れ、睾丸の痛み、関節の激痛、体力低下…。

こうして書くとたくさんありすぎてよくわからないと思うのですが、自分が想像できるすべての痛みが、同時に起こっている。まさに激痛のオンパレードという感じです。

特に難敵だったのは、食事でした。

大量の抗がん剤や放射線治療により、まったく味覚がなくなったあとに、酸味だけを30倍以上に感じる味覚障害になってしまったのです。

味がしないうちは、食感にのみ集中することができ、むしろそれを少し楽しめた自分もいました。しかし、白米も水も野菜も、お肉を食べても腐ったお酢を大量にかけたような味になってしまうのはさすがに耐え切れませんでした。

加えて、食事をするたびに、口内、喉、胃、腸など、内臓すべてが火傷しているかのような激痛が走るのです。痛み止めを大量に投与しても効かず、頑張って食べきっても数時間後には嘔吐を繰り返す…。
とはいえ、点滴だけでは栄養不足で、食事をとらないと回復率や完治率が低下してしまう。スプーンでバナナを離乳食のように潰して飲み込みやすくするなど、必死に試行錯誤を重ねました。
絶対に生きる!絶対に治す!

僕はその気持ちを失ったことはありません。気持ちでは絶対に病気に勝っていたと思います。

ただ、全身が痛すぎて自然と涙が溢れてしまう。そんな毎日でした。

いかなる環境にも対応できるように、人は常に進化する

けれど、そんな過酷な日々を過ごしているうちに、さまざまな変化がありました。

あまりにも過酷な状況が続くと、人は慣れはじめて、耐性がついてくるんです。痛さにも、環境にも強くなっていくんです。

もしかすると、いかなる環境にも対応できるように、日々進化しないと、人間は壊れて、死んでしまうのかもしれない。

それは「環境によって、人は常にアップデートできる可能性がある」という気付きのはじまりでした。
〈編集・構成=宮内麻希(@haribo1126)〉

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