ビジネスパーソンインタビュー
平野啓一郎著『「カッコいい」とは何か』より
“しびれる”ような生理的興奮に着目せよ。「カッコいい」の探求は、自己発見につながる
新R25編集部
「カッコいい」って、どういう意味だと思いますか?
顔が整っている男性、活躍するアスリート、凛々しい女性など、使われるシーンはさまざまなこの言葉。
『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を上梓した小説家・平野啓一郎さんは、そんな曖昧な使われ方・表現を再度見直し、「カッコいい」とはそもそもなんなのか?という疑問を投げかけました。
平野さんは、新著『「カッコいい」とは何か』のなかで、「カッコいいを求めることは、自分探しに通じる」と分析しています。その理由を書籍から抜粋してお届けします。
「恰好が良い」とは何か
まず、「カッコいい」の語源は「恰好」であり、これは『白氏文集』とともに9世紀半ばには日本に輸入されていたが、使用され始めたのは、室町時代から江戸時代にかけて、五山の禅僧たちが漢籍の再読を行った時期である。
その意味は、「あるものとあるものとがうまく調和する・対応する」という理想的な状態を指すものだった。
その後、「恰好が良い」、「恰好が悪い」という同義反復的な表現で、調和の程度が意識されるようになる。まず一般にその理想像が理解されている前提で、それとズレているかどうかだけでなく、標準的なモデルを中心に、その上下が序列化された。
「恰好が悪い」というのは、理想に満たないというより、標準以下という意味である。
「恰好」は、今日の中国語では使用されておらず、これは日本で独特に発展した概念である。
「恰好が良い/悪い」の判断が出来るのは、良い趣味を備えた通人である。
マスメディアが十分に発達するまで、この限られた人たちの評価が全国的に共有されるということはなかった。従って、各分野の「恰好が良い」の影響力も限定的だった。
「恰好が良い」ものは、見る者を快くする。一方、「恰好が悪い」ものは、気持ちが悪く、殊にそれが自分に関することであるならば、羞恥心を覚える。その場合、理想的なほどに秀でることまでは望まれず、せめて標準的であることが出来れば、羞恥心は解消される。
「恰好」とは別に、宋学を通じて発展し、日本に輸入された「義理」という概念も、個人のあるべき姿、という意味では、恐らく「カッコいい」という言葉の源流の一つとなっている。
重要なのは、これが社会の「人倫の空白」を埋める機能を果たしたことであり、一方では武士道に於ける主従関係の規範を形成し、他方では庶民の日常生活の規範へと転じた。
「カッコいい」は60年代以降に広まった
「カッコいい」という言葉が爆発的に流行したのは、1960年代以降である。
戦後、数多くの流行語が生まれては消えていったが、「カッコいい」は、今日に至るまで一度として廃れることなく、日常の会話に定着している。
この言葉を戦前からいち早く使用し始めたのは、音楽関係者だという説が有力である。
「カッコいい」は、「恰好が良い」が形容詞化したものであり、その“理想像との合致”という意味は残存した。
他方で、ある対象が、「しびれる」ような生理的興奮をもたらし、強い所有願望、同化・模倣願望を掻き立てる時に、私たちはそれを「カッコいい」と表するようになった。
「恰好が良い」が、あるジャンル内の評価であるのに対して、「カッコいい」は、ジャンルを前提とせずに下せる評価である点に特徴がある。
その根拠は、長年、専門家の間で培われた趣味や理論ではなく、素朴な“体感”であり、だからこそ、評者の資格は、身体を備えたすべての人間に開かれることになる。
社会はつまり、個人の生理的機能をそのシステムに組み込んで、近代以降、次々に生み出されるようになった多様な新しいものの価値判断を、「しびれ」の有無を通じて、分散処理的に行うようになったのである。
多くの人間が鳥肌を立たせる存在は、「カッコいい」のであり、それは、資本主義と民主主義とが組み合わされた世界では、絶大な力を発揮するのであった。
他方で、個人の側からすると、自分の人生の時間を費やす対象を、上から画一的に押しつけられるのではなく、「しびれ」を通じて、主体的に選択できるようになったのである。
「カッコいい」は、この決して疑いようのない体感を通じて、個人のアイデンティティに深く根差すことになる。
なぜなら、すべての人間が、その時「しびれて」いるわけではなく、自分はこういうものに鳥肌が立つ人間なのだということは、一つの自己発見だからである。
そして、ビートルズのように、多くの人がその音楽に「しびれて」いる時でも、その強度の競争によって、自分が特権的なファンであることを信じたくなるのである。
「経験する自己」のこの「しびれ」は、「物語る自己」によって言語化される。
実際には、美しい絵を見ても、崇高な自然に接しても「しびれる」ことはあるが、「カッコいい」という言葉は、その多くを引き受けている。
この時、外部環境が大きな意味を有しているので、そこに介入することがあり得る。意識的、無意識的を問わず、「カッコいい」存在は、この生理的興奮を複合的な要因で引き起こし、言語化を誘導している。
「しびれ」が快感として自覚されると、それを反復的に経験したくなる。なぜならそれは、快楽であり、自分の生に実感を与えてくれるからである。
自傷行為的な痛みが、自己に対する否定的な「生きている」刺激であるとするならば、この「しびれ」は、肯定的な刺激である。
個人の生き方そのもの
私たちは、この鳥肌を立たせてくれる対象に魅了され、夢中になり、「カッコいい」という言葉を得て、憧れを抱き、同化・模倣願望を抱くようになる。
自らその世界観を再現しようとし、必死の努力を重ねる。あるいは、その人のいる場所に足を運び、その人を想起させるものを買い集める。「カッコいい」対象の一挙手一投足に注目し、その言動に注目する。
これに対して、「カッコいい」存在に、何かしら自分と共通する点を見出し、共感を抱いた人は、その対象を理想化する。
あとから、それが自分の求めていたものだと気がつき、以後の価値判断の尺度とするようになる。
ここに至って、60年代以降の「カッコいい」は、その原義である「恰好が良い」に接続され、非日常体験は日常化されるわけだが、ただし、その理想像は、「恰好が良い」のように他者に共有されているわけではないので、事後的に同意する“仲間”が求められることになる。
それが、著名人や人気商品のファン・コミュニティであり、それを実現するのはメディアである。
今日のマーケティングでも、ファン・コミュニティの重要さは喧しく強調されているが、なぜならば、その場所がないと、個々の「しびれる」ような体験は、孤立したまま放置されてしまうからである。
そして、このコミュニティは、内的には強い結束を実現するが、しばしば排他的であり、他のコミュニティとの相互の理解には困難が伴う。
とはいえ、実際に多くの人間にとって重要なのは、「カッコいい」ことよりも、「カッコ悪くない」ことであり、「ダサい」と目されることの羞恥心や屈辱感も、否定的な意味で極めて体感的である。
「カッコいい」が60年代以降、日本で一気に広まったのは、戦後社会に「自由に生きなさい」と放り込まれた人々が、その実存の手応えとともに、個々の多様性に応じた人生の理想像を求めたからである。
社会的には、これにより、大きな「人倫の空白」が、複雑なパズルのピースの組み合わせのように埋められることとなった。
「カッコいい」人やものを求めるのは、言わば“自分探し”である。
だからこそ、私たちは、自分が「カッコいい」と信じている人を誰かから「カッコ悪い」と笑われると、まるで、自分自身を侮辱されたかのように腹が立つ。
メディアはその発見の手助けをするし、一度「カッコいい」と感じた感情を、継続的な情報で強化し続ける。結果、個人主義時代の多様な価値観は、ガイドとしてのマスメディアの影響で、流行としてしばしば統一、または画一化される。
それは、キャリア女性のファッションといった、「恰好が良い」という意味に近いお手本の役割から、韓流スターの鳥肌が立つような「カッコよさ」を紹介する役割まで、様々である。
「カッコいい」対象は、古く硬直した体制を揺さぶり、新しい価値観を提示する。
彼らは、「起源」になり得る、という文字通りの意味で、オリジナリティoriginalityがあり、それがあまりに一般化し、マイルドな模範となった時には、「カッコいい」は「カッコ悪い」へと転落し、次なる「カッコいい」存在が必要とされる。
「カッコいい」探しは「自分探し」
ここまで論じてきたように、「カッコいい」には多様性がある。だがそれでも「カッコいい」のもつ特質は具体的にあるはずだ。
結論から述べると、日本の「カッコいい」という概念は、戦後の“大西洋文化”の多大な影響の下に形成されているといえる。
実際に「カッコいい」という言葉の流行は、アメリカの「クール cool」「ヒップ hip」、そしてイギリスの「モッズ mods」といった言葉の流行と重なる部分が大きい。
またヨーロッパ大陸から持ち運ばれた「ダンディ dandy」も、「カッコいい」という価値観に影響を及ぼしてきた。
「カッコいい」が戦後の大西洋文化の影響を受けている以上、その基盤には「個人主義individualism」がある。そして多様な個人は、それぞれに自らの生を導いてくれる模範的存在を必要とする。
「ああいうカッコいい存在になりたい」という憧憬は、「自由」を与えられた個人に、人生の指針を授けてくれるからだ。
つまり「カッコいい」人を探すということは、「自分探し」にほかならない。
そして個人主義の時代である以上、その判断基準は自分自身、つまり「しびれる」ような体感ということになる。
歴史・文化・古典などから「カッコいい」を理解する
「『カッコいい』という日本語」「『カッコ悪い』ことの不安」「『カッコいい』のこれから」といった10章からなる同書。
「カッコいい」を歴史的背景、文化、古典、音楽など複合的な観点から「カッコいい」を紐解いています。
当たり前のように使っている「カッコいい」を、今一度見直してみませんか?
〈撮影=伊澤絵里奈〉
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