ビジネスパーソンインタビュー
ひろゆき著『1%の努力』より
最底辺を見ておくと、“ヤバい”の基準が下がって楽になる。僕が「働かなくていい」と思うワケ
新R25編集部
「幸せになりたい」「楽しく生きたい」それは誰もが求めてやまない願いでしょう。
しかし、その「幸せ」や「楽しい」の基準は誰が定めているのでしょうか? まわりと見比べて、「あの人は幸せそうだ」などと感じることはないでしょうか?
ひろゆきさんの新著『1%の努力』では、そんなまわりと比べる生き方について、「比較対象がないほうが、人は幸せなんじゃないか」と否定しています。
「2ちゃんねる」や「ニコニコ動画」といったインターネットの文化を築きあげたのち、現在はフランスで悠々自適な生活を送っているひろゆきさん。
「レールを外れて幸せに生きるコツ」について書かれた同書より、努力を最小限にしてラクに生きる考え方について抜粋してお届けします。
意識のズレは「前提条件」が異なるから起こる
前提が異なると、物事の受け取り方は異なる。
「月5万円あれば暮らせます。残りは貯金に回してください」
僕がそう言ったとする。
「なるほど、わかりました!」と、素直に受け止めて実行する人と、「いや、それはお前だからできるんだろう」と反射的に批判する人に分かれる。
これは、「前提条件」が異なるから起こる。
僕は、若いうちの貧乏体験は、できるだけしておいたほうがいいと思っている。
なぜなら、給料が下がったり、リストラに遭ったりしたときに、生活レベルを下げることが「感覚的に」できるからだ。
この「感覚的に」というのが大事である。
「理論的にわかっている」と「感覚的にできそう」は、似ているようで全然違う。
どう違うのか。
「誰だって1円玉くらいは頭を下げてお願いをすればくれる。だから、1億人から1円玉を集めれば、1億円が手に入る」
これは、理論的には正しい。けれど、感覚的にできることではない。こういう例は他にもたくさんある。
さて、話を戻そう。
「月5万円あれば暮らせます」
こう言われたときに、学生時代や社会人1年目のお金がなかった頃を思い出し、感覚的に「貧乏だったけど、それなりに工夫してやってこられたな…」と思える人は、僕の話を理解してくれる。
一方で、子どもの頃から何不自由なく暮らしてきて、実家暮らしで給料のほとんどを自分へのご褒美に使ってきたとしたら、理解できないだろう。
「この人は特殊な考え方をする人なんだ」
そんな小さな意識のズレは、人を排除することにつながりかねない。
ズレを乗り越えるには、どうすればいいのだろう。
ということで、こう考えてみよう。
「この人とは、『前提』が違うんじゃないか?」
考え方が異なる人が現れたら、この言葉を思い出して自分の頭で考えてほしい。
そうすることで、偏見がインプットに変わる。違和感を楽しめる思考や目の前のことを楽しめるスキルは、長い人生でもきっと役に立つはずだ。
ということで、準備は整った。
なぜ、僕が、「働かなくてもいい」と思えるのか。その思考が形成された状況を話していこう。
守るべきラインはどこにある
僕が通っていた小学校の9割くらいの子は団地に住んでいた。
主に「桐ヶ丘団地」というエリアだ。それ以外の1割が、一軒家グループで、かなりマイノリティだった。
だから、僕のなかでは団地に住んでいる人たちが「普通」だった。
そのころからずっと思っている疑問は、一軒家を持つと、壁の掃除はどうするんだろうということだ。
あんなに大きなものを所有する感覚が理解できなかった。理由は単純で、持て余すからだ。
モノを手に入れるということは、その後のメンテナンスを引き受けるということだ。そう考えると、モノがないことも豊かさだと捉えることができる。
物やお金を持つと、それを守りたくなる。
それは、ステータスやプライドのような「見えないもの」についても同じだ。人は知らず知らず、最低限の守るべきラインを設定してしまっている。
しかし、守るべきラインを高めに決めてしまうと、それを維持しなければならない。維持するコストが発生する。
ただ、守るべきラインが低めの桐ヶ丘の住人たちは、守るべきものも少なく、ラクに暮らしていた。
仮に生活保護になっても同じ団地にずっと住めるので、そんな人たちもたくさんいた。働きたければ働けばいいし、働きたくなければ生活保護で暮らせばいい。
いずれにしても彼らの生活は何も変わらない。だから、よくできたシステムだったのだ。
子どもも多くて、みんなが貧乏でヒマだった。その地域全体で子育てをする感覚があった。よその家の子どもをみんなが知っているので、友達の家でご飯を食べたり、泊まり合ったりした。
いまでいうシェアハウスの原型のような「支え合い」がすでにあった。
貧乏だった団地の光景は、一周まわっていい環境だったんじゃないかと最近思うようになってしまった。
ただ、「昔に戻ればいい」と言いたいわけではない。
「共同体」のような生態系の中で、競争せずにダラダラ過ごせる支え合いが大事なのではないかと思うのだ。
大人になり、他の地域の人たちと話すようになってくると、自分の当たり前が当たり前じゃないことに気づく。
あるいは、別の地域で暮らしてみると、基準の違いが見えてくる。
ということで、僕は「働かないといけない」という感覚が圧倒的に乏しい。
ヤバいと感じるライン
僕が「働かなくてもいい」と思える理由はもう1つある。
高校3年生のときに飲み会をして自転車で帰っていたところ、警察に見つかって交番に連れて行かれたことがあった。
父親が呼ばれたけど、ずっとヘラヘラと笑っていたのが印象的だった。
そんなに大したことはしていないし、特に誰にも迷惑をかけていないことはわかっていたのだろう。
「悪いことだから怒る」という教育をされていたら、もう少し社会的な大人になったかもしれないが、そうではなかった。
団地にいた友達で、一人はヤクザになり、一人は右翼になったそうだ。
なんかそういうのもわかる気がするのだが、周りの人にこういう話をしても、反応は2つに分かれる。
「ヤバいね」と思うのか、「そういうこともあるね」と思うのか。
人によって、「ヤバい」の基準は異なる。
上司に怒られたらヤバいのか、無職になったらヤバいのか、借金を背負ったらヤバいのか、家を失ったらヤバいのか。
あるいは、僕のようにわりとどれも普通だと思うのか。
一度、自分の「最底辺=ヤバい」を考えておくのがいいのかもしれない。
「自分はどうなったらヤバいと感じるのか?」
僕の小学校の友達に、ある日、金貸しから督促状が来たという。まったく見覚えがないから調べてみると、弟が兄の免許証を盗んでその名義で金を借りていた。
「返さないんだったら警察に弟を突き出すけどどうする?」と脅され、仕方なく兄は代わりにお金を返したそうだ。そんな話だって身近にざらにある。
しかし、世の中には、大学に行けなかっただけで「もう人生は終わりだ」と感じてしまう人もいる。
そうやって基準が高いところにあると、生きにくいだろう。
僕の周りは団地出身の人が多くて大卒は少数派だが、食いっぱぐれて死んだ人なんて見たことがない。
「自分は底辺だからダメだ」などと腐ってしまいがちな人も、自分より生きにくい人が周りにいると、ダメだとは思わないはずだ。
社会の底辺と呼ばれる人たちの場所に行ってみるほうがいい。
どうしても行くのが難しいなら、本や映画などで見ればいい。ビジネススキルを身につけるより、よほど役に立つ。
上を見て比べるのはバカらしいけど、下を見て落ち着くことを、僕は否定しない。
考え方次第で楽になることは、スキルとして持っておこう。
親も教師も言わないかもしれないが、それが「生存する」ということだ。
基準を下げて生きる
ひろゆきさんは学生時代からいままで、一貫してムダを排除してきました。
それは私たちが無意識に行なっていることのようで、実はムダだと思いたいものをムダだと思い、そう思いたくないもの大事にしているだけなのかもしれません。
ムダの是非を問うことは、実は物事の本質を自分軸で判断する重要な選択でもあるのだと、ひろゆきさんは教えてくれます。
ひろゆきさんの『1%の努力』。
背負っていた荷物が途端に軽くなるような一書です。ぜひお手に取ってみてください。
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