ビジネスパーソンインタビュー
永井隆著『キリンを作った男――マーケティングの天才・前田仁の生涯』より
「一番搾り」の根底にある“ロングセラー5箇条”。キリン伝説のマーケターによるヒットの裏側
新R25編集部
「どうすればヒットするか、俺には分かってしまうんだ」
「一番搾り」「淡麗」「氷結」など、親しみ深いお酒を次々と世に打ち出してきた、キリンビールのメガヒットマーケター・前田仁さん(1950年〜2020年)の言葉です。
一流のマーケターが商品をヒットさせるまでには、どのような嗅覚や戦略が必要なのか…?
そんな疑問を、前田さんが辿ってきた物語を通して明らかする一冊が、ビール産業を取材して30年以上になるジャーナリスト・永井隆(ながい・たかし)さんの著書『キリンを作った男――マーケティングの天才・前田仁の生涯』(プレジデント社)です。
今回は同書より、「一番搾り」誕生までの軌跡とロングセラーの5箇条について抜粋してお届けします。
この記事はこんな人におすすめ(読了目安:5分)
・キリンのヒットの裏側を知りたい人
・ヒットを出したいマーケターやクリエイター
・チームにヒットをもたらしたいリーダー
キリンのメガヒットマーケター・前田仁
キリンビールといえば、どういうブランドを思い浮かべるだろうか。
「一番搾り」を真っ先に想像する人は多いかもしれない。
ビールではその「一番搾り」に「ハートランド」、発泡酒の「淡麗」および「淡麗グリーンラベル」、第3のビール「のどごし」、そして缶チューハイ「氷結」…。
これらはみな、一人の人物が作った商品である。
その人の名は前田仁(1950年〜2020年)。
ある時期まではプレーヤーあるいは現場リーダーとして、以降はカリスマ上司として、前田は新商品開発に挑んだ。
このように複数のメガヒットを飛ばしたマーケターは、キリンの中で、いやビール業界では、ほかにはいない。
なぜこの男だけが、いくつものヒットを生み出せたのか――。
「一番搾り」開発の一手は“優秀な人材集め”から
キリン「一番搾り」の開発が始まったのは、89年1月だった。
開発を担当したのは、新商品開発を専門とするマーケティング部の第6チーム。
そのリーダーに当時39歳だった前田仁が就いた。
アサヒ「スーパードライ」の勢いを何としても止めなければならない。
そのための新商品として、「一番搾り」の開発がスタートする。
前田はまず、社内の優秀な人材を、部門の垣根を越えて集めることから仕事を始めた。
入社5年目で名古屋工場醸造課に直近まで勤務していた舟渡知彦など、その後キリンの中核を担う人材が集結する。
「一番搾り」の広告は電通が担当したが、その電通側の人選すら、前田がやったという。
プロジェクトに参画した電通は、すぐ次のような提言を行った。
「アサヒはスーパードライという核弾頭で戦っている。一方、キリンには小さな武器しかない。キリンにも核弾頭が必要だ」
「核弾頭」とはいかにも大げさだが、こうした単語のチョイスが当時のビール商戦の激しさを物語っている。
「一番搾り」が倣った、ロングセラーの5つの条件
当時、前田の部下だった舟渡は、こう証言する。
「『ロングセラーに帰る消費者たち』(ダイヤモンド社)という本が前田さんあてに送られてきました。千葉商科大学の教授をしていた熊沢孝さんの本でした。前田さんは忙しかったので、代わりに私が読んで、内容を教えろと指示されました」
『ロングセラーに帰る消費者たち』は、ハウス「バーモントカレー」や、グリコ「ポッキー」など、さまざまなロングセラー商品を分析していた。
マーケティングの本を読むのは初めてだった舟渡は、新しい世界に触れる興奮を覚えながら、要点を自分なりに整理して、前田に提出した。
「1つ、企業の思い入れが感じられること。2つ、オリジナリティがあること。二番煎じではダメ。3つ、本物感があること。4つ、お客様が得した感じを抱けること。要するに経済性です。日本の消費者は経済性が好きで、メーカーはその分、損をしがちです。5つ、親しみやすさがあること。個性が強すぎるものは嫌われます」
舟渡の話を聞いて前田はこう言ったという。
「いいじゃないか。これでいこう」
こうして「一番搾り」の方向性がまとまっていった。
キリンを作った男――マーケティングの天才・前田仁の生涯①企業の思い入れ
②オリジナリティ
③本物感
④経済性(お得感)
⑤親しみやすさ
この5条件のうち、特に③と④の要素を前田は大事にしていた。
麦芽100%で、しかも専用のグリーンボトルを使った「ハートランド」、一番搾り麦汁だけを使う「一番搾り」、高コストな大麦を使った「淡麗」と、いずれも前田は「プレミアムな価値」を「スタンダードな価格」で提供することにこだわっている。
“キリンの天皇”と直談判して勝ちとった「危険な賭け」
「キリン・ジャパン(「一番搾り」の当時の名称)」の商品化が正式に決定する。
ここで問題が持ち上がった。
「キリン・ジャパン」は、「ヱビス」のような高価格のプレミアムビールにするという。
コストが上がる分、商品価格を上げるという判断が下ったのである。
「これでは勝てません。スーパードライを止める大型定番商品を作るのが、僕たちの目的だったはずです!」
会議の結果を持ち帰った前田に、さっそく舟渡が食ってかかった。
前田自身も通常価格で売るべきだと思っていた。
そうしないと「スーパードライ」に対抗できないのはわかり切っている。
だが、この時、前田は39歳。
経営会議の決定を覆す力は持っていなかった。
その時、前田のマーケティング部第6チームが入るフロアのドアが静かに開き、大男が入ってきた。
その男は前田の前にやってくると、前置きもなく言い放った。
「前田君、今日の経営会議の決定を、君はどう思う?」
この大男こそ、キリン社長の本山英世だった。
当時、「キリンの天皇」と呼ばれていた男である。
「社長、実は申し上げたいことがあります」
「そうか。では、二人だけで話そう」
この「直談判」の場でも、純粋に商品としてどうすれば売れるか、という話をした。
開発責任者として「通常価格でなければ、スーパードライを止められません」と、前田はあくまで冷静に訴えた。
数を売れば、多少原価が高くても採算は取れる。
一方で思うように売れず、空振りだった場合、ダメージが大きくなる。
つまり、値上げせず通常価格で売るのは「危険な賭け」だった。
「すべての責任は、私が取ります」
前田はこの時、「キリンの天皇」の前で、自分の覚悟のほどを示したのだった。
やがてドアが開き、いつものニヤニヤ笑いを浮かべた前田が入ってくると、いつになく張りのある声で次のように言った。
「通常価格で行くことになった。プレミアム案は却下だ」
それを聞いた舟渡は思わず小躍りした。
「一番搾り」の大ヒット
「一番搾り」のヒットが牽引し、キリンの90年の販売数量は前年比10.5%増の2億5500万箱に拡大する。
この年2桁増を果たしたのはキリンだけだった。
「一番搾り」のヒットにより、前田ら開発チームは、当時の本山英世社長から社員表彰(社長賞)を受ける。
発売翌年の91年6月のことだった。
前田仁は、この時41歳。
働き盛りのサラリーマンが手にした栄光だった。
“マーケティングの天才”の頭のなか
戦後にキリンでヒットした商品のほぼすべてにかかわり、「マーケティングの天才」と謳われた前田さん。
2022年1月からキリンビール社長に就任した堀口英樹さんは、前田さんについてこう言います。
キリンを作った男――マーケティングの天才・前田仁の生涯本質と信念の人でした。
つねに流行は追っているけれど、それで『本質』を見失うことはない。
前田さんにとっての『本質』とは、お客様のことです。
会社の都合などは二の次でしかありません。
部下にも『社内事情より、お客様を第一に考えろ』と言い続けています。
前田さんにかかわった仲間の証言から見えてくる“天才マーケターの頭のなか”を、同書で覗き見てみませんか?
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