ビジネスパーソンインタビュー

【第一話全文公開】紀里谷和明『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』

あなたはなぜ成功を求めるのか?

【第一話全文公開】紀里谷和明『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』

新R25編集部

2020/08/22

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成功したい」

「自分を好きになれない」

「やりたいことが見つからない」

「仕事がうまくいっていない」

「人生をあきらめかけている」

このなかに、あなたの悩みは含まれていますか?

映画監督・紀里谷和明さんが上梓した自己啓発小説『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』には、この悩みを抱える登場人物と、「出会えれば誰もがしあわせになれる」と言われるふしぎな劇場の支配人との対話が描かれています。

今回は特別に、第1話「成功したいあなたへ」を全文無料公開

「お金がほしい」と願うビジネスマン・翔太は、なぜ“成功したい”と考えているのでしょうか…?

第1話「成功したいあなたへ」

ガッシャーン。

薄暗い繁華街の路地裏で、翔太はゴミ捨て場にドサッと倒れ込んだ。

「お客様が、ちゃんとお支払いしてくださらないから」

明らかにカタギではない、屈強な黒服の男たちが、ニヤニヤとした卑しい笑いに似合わない丁寧な口調で語りかける。

「ふざけん……」

反論しようとした瞬間、ふたたびグイッと胸ぐらをつかまれた。頬に一発。さらに別の男が、バタリと倒れ込んだ翔太の腹を、足で蹴り上げた。

「うっ……」

9月の終わりとはいえ、風通しの悪いこのあたりは、蒸し風呂のようにむわっと澱んだ空気が立ち込めていた。翔太の顔は、汗なのか涙なのかわからない水分でぐちゃぐちゃになり、そこに血まで混じっているという有様だった。

最後に、一人の男が翔太の髪の毛を思い切りつかみ、その歪んだ顔を近づけてきた。

「お前みたいな貧乏サラリーマンが来る店じゃねえんだよ」

捨て台詞を投げかけ、笑いながら男たちは去っていった。

「痛……」

口の中が切れて鉄の味がする。顔から腹から手から足から、体のいたるところから痛みが訪れて、もうどこが痛いのかもわからない。ゴロゴロと転がる酒瓶の音を頭の奥で聞きながら、翔太は静かに目を閉じた──。

どれだけ時間がすぎたのだろう。

目を開けると、薄暗い中に、あたたかなオレンジ色の光がぼんやりと見える。

眼球だけを動かすと、仕立てのいい黒いジャケットをはおった老紳士が、グラスにコポコポと水を注いでいるのが目に入った。

いくらあれば、しあわせになれるか?

翔太  あれ……。

支配人 目が覚めましたか?

翔太  え、ええ……。あの、俺……。痛っ!

支配人 ああ、動かないで。まだ傷が。

翔太  痛え……。

支配人 ほら、もうしばらく安静にしておかないと。水、一口いかがですか?

翔太  あ、ありがとうございます……っていうか、あなた……誰ですか?

支配人 申し遅れました。わたしはこの劇場の支配人をしている者です。

翔太  劇場? なんで劇場……。ああ、あれ、舞台……?

支配人 はい。あなたが近くの道で倒れていらしたので、こちらまでお運びしたのです。しかし頬、だいぶ腫れてきましたね。あとで、きちんと病院に行かれたほうがいい。

翔太  それは……ご親切にありがとうございます。……っていうか、こんなとこに劇場なんてありましたっけ?

支配人 ええ。めったに開いていないので、気づかれないことも多いのですが。

翔太  そうでしたっけ……。

支配人 それにしても、どうしてそんな傷を?

翔太  ああ……これですか? ぼったくりの店で殴られちゃって。

支配人 ぼったくり?

翔太  はい。今日、俺、営業ノルマを達成して、電話で上司に報告したらめちゃくちゃほめられたんですよ。

それで、いい気分だったんで、帰りに客引きに声かけられてそのまま飲みに行ったんです。そしたら、ビール一杯とおつまみちょっとで、9万だって。しかもまだ一口も飲んでないのにお会計とか言って、ふざけやがって……。

あー、思い出したら腹立ってきた!

支配人 それで、お支払いはされたのですか?

翔太  まさか! 「こんなのおかしい。ぼったくりだ!」って怒鳴ったんです。そしたら、店の奥から怖そうなヤツらが出てきて、このとおり。ボッコボコですよ。

支配人 それはひどい話ですね。

翔太  あー、がんばって転職して、有名なIT企業にやっと入れて、順調に成果出してここまできたのに。すげーダサいっすね、俺……。やっぱ社長になんなきゃダメだな。

支配人 社長ですか?

翔太  はい。社長になって、お金がたくさんあれば、9万くらい軽く払えるじゃないですか。そうなったら、あいつらなんて、札束でひっぱたいて奴隷にしてやりますよ! あー、もっとお金欲しい!

支配人 お金が欲しい? あなたには、そんなに欲しいものがあるのですか?

翔太  そりゃあたくさんありますよ! いい車にも乗りたいし、ブランドものの服も着たい。タワーマンションの最上階に住んで、ホームパーティーも開きたい。そのためには、たくさんお金がいるじゃないですか。

あっ、もちろん努力もしてますよ。ダラダラすごさないよう、もうずいぶん前にテレビは捨てましたし、ほかにも本をたくさん読んだりとか……。

支配人 そうですか……。

翔太  たとえばこの本。最近すごく売れてるんですけど、知りません?

支配人 『強く願えば欲しいものはすべて手に入る』。

翔太  はい。欲しいものを強く心の中に思い描いて、潜在意識にまで刷り込むんです。なるべく具体的に。あたかもそれがすでに手に入っているかのような感じで。

だから、スマホの待ち受けも、ほら。あ、さっきので画面が割れちゃってる……。

支配人 これは、フェラーリですか?

翔太  はい。フェラーリ初のハイブリッドカー、1億6000万以上もする「ラ・フェラーリ」です。これ、すごいんですよ。日本語に訳すと、「フェラーリ中のフェラーリ」っていう意味なんです。

これを朝起きたときとか夜寝る前とか、ひまがあったら眺めるようにしてます。

支配人 どうしてそんなに、フェラーリが欲しいのですか?

翔太  どうして……って、お金持ちの象徴じゃないですか? カッコいいし、絶対にモテるし。

支配人 それほどお金が欲しいと。ではあなたは、いくらあればしあわせになれると思うのですか?

翔太  えっ。そんなの、あればあるだけいいに決まってるじゃないですか。1億でも、100億でも。あ、もちろん、お金で買えないしあわせもある、っていう言葉は知ってますし、それも否定しません。

でも、それと同じくらい「お金で買えるしあわせ」ってあると思うんですよ。違います?

支配人 お気持ちはわかります。わたしも昔、あなたとまったく同じことを考えていましたから。

翔太  そうなんですか?

支配人 ええ。昔の話ですが、あなたと同じように富に憧れ、これ以上ないほどの経済的豊かさを得たことがあります。

翔太  え、経済的な豊かさ……って、どれくらい? どれくらいお金持ちだったんですか!?

支配人 そうですね。あなたが「お金持ち」と思っている人と同じくらいでしょうか。欲しいものを欲しいだけ買える生活を送っていました。

翔太  欲しいものを欲しいだけ……って、家も? 車も? ああそれ、本物のお金持ちじゃないですか! すげー! いやあ、うれしいです。やっと正真正銘の勝ち組の人に会えたって感じです。きっと今日殴られたのも、何かのご縁ですね!

それで、お金持ちってどんな気分でした? やっぱり、めちゃくちゃ気持ちいいんでしょ? 最高の気分なんでしょ!?

支配人 いいえ。まったく。

翔太  は?

支配人 まったく、心地よいものではありませんでした。

翔太  いやいや、そんなはずないでしょう? だって、お金持ちなんですよ? 欲しいものは何でも買えるんだし、いいことしか……。

支配人 ええ。たしかに経済的には何も不満はありませんでした。しかし、あなたが想像されているような満たされた気持ちにはなれなかった。それが、現実でした。

この人、調子が狂うな……。それが翔太の本音だった。

彼から漂うそこはかとない品格は、間違いなく金銭的な余裕に裏付けられている。

それなのに、翔太が望むような「お金持ち」になっても「まったく心地よくなかった」という発言は、どうにも怪しいものに感じられた。

翔太は、劇場の硬い椅子に座り直し、その思いを正直に伝えた。

すべてを手放したのです

翔太  あの……失礼なことを言うようですけど、あなたは、嘘をついていますね?

支配人 どういうことでしょう?

翔太  実際お金持ちの人たちって「お金があるだけではしあわせになれない」とか、よく言うじゃないですか。

でも、俺はそれを「彼らが、自分の富を独占するための方便」だと思ってるんです。

もしくは、「お金より大事なものがある」って言ったほうがカッコいいから、そんなふうに言ってるんじゃないか、って疑ってます。

支配人 ははは。だいぶ屈折されてますね。

翔太  いやいや、屈折してるのはあなたでしょう? 自分を良く見せるために、嘘をついてるんじゃないですか?

支配人 あなたに良く見られて、わたしに何の得があるのでしょう?

翔太  ……知りませんよ! だって、お金があるのに満たされないなんて、どう考えたっておかしいでしょう!?

支配人 おかしいと思いますよね。しかし実際、そうだったのです。当時のわたしには混乱しかありませんでした。

翔太  混乱? お金があるのに? どういうことですか?

支配人 ある夜のことです。わたしは突然、いてもたってもいられなくなって、自分が持っているすべてのものを捨てたくなってしまったのです。いや、捨てざるを得なくなったというほうが正しいでしょうか。

自宅のクローゼットを開け、引き出しを開け、狂ったようにものを捨て続けました。中にはまだ袖を通していないオーダーメイドのスーツも、高級な時計もありました。とても気に入っていた車も、海外に建てた家も、すべてを手放したのです。

翔太  え!? 家まで手放したんですか? そんなもったいない……。あまりにも極端すぎるでしょう……。どうして捨てる必要があったんですか?

支配人 それはわたしにもよくわかりませんでした。ただ、今思うのは、ものを捨てることで、自分にほんとうに必要なものは何なのかを知りたかったのだと思います。

翔太  ほんとうに必要なもの? それはお金じゃなかったということですか?

支配人 はい。今になって思うのは、わたしは物質的に満たされることを、それほど求めていたわけではなかったのです。

それなのに当時は、深く考えることもなく、当たり前のように経済的強者になろうとしていた。そんな自分に愕がく然ぜんとし、それをしずめるためにものを捨てたのかもしれません。

翔太  えっと……、そう言ったほうがカッコいいから、とかじゃなくて?

支配人 先程からあなたは、何を恐れているのですか?

翔太  恐れて……? いや、何も恐れていませんよ! だって常識として、お金ってあったほうが絶対にいいに決まってますよね!? きれいごと抜きで。

支配人 誤解しないでいただきたい。わたしは「お金を持つのが悪いことだ」と言っているわけではありません。

翔太  え、違うんですか?

支配人 はい。お金を持つことについての善悪など、はっきり言ってどうでもよいのです。それはわたしが決めることではありません。

翔太  じゃあ、何が言いたいんですか!?

支配人 重要なのは、あなたが何を欲しがっているのかということです。

翔太  だから俺はお金が欲しいって……。

支配人 何のために? お金を手にすれば、あなたはほんとうに満たされるのですか?

翔太  み……満たされると思いますよ。

支配人 思います? ということは、確信はないということですね?

翔太  でも、お金があったら、今日みたいな目にもあわなかったし……。ないよりあったほうがいいに決まってるじゃないですか。

支配人 ないよりあったほうがいい。それは、あるにこしたことはないけれど「なくてもなんとかなる」ということですか?

翔太  そんな、揚げ足とるようなこと……。

支配人 たとえば、「命って必要ですか?」と問われたら、「命はないよりあったほうがいい」と答えますか? 絶対に不可欠なものに対してそんな言い方は決してしないのではないでしょうか。

翔太  うーん……。

支配人 つまりお金を得ることが最終目的でないとしたら、ほんとうはあなたは、何を求めているのでしょうか?

劇場の薄暗い光の中で、白髪まじりのヒゲが優しく動くのが見えた。

この人が、どんな社会的成功を収めた人かはわからない。でも、今はこうして、さびれた小さな劇場の支配人をしている。

昔は大金持ちだったという彼は、みずからそこを抜け出したという。翔太が喉から手が出るほど欲しい、高級車や広大な家を手放してまで。

その思考回路は、翔太にはまったく理解できなかった。ただ、謎だらけのこの老紳士は、とにかく顔の端々まで満たされた表情をしていた。

お金がないと、モテない

翔太  俺がほんとうは、何を求めているのか?

支配人 そうです。あなたが欲しいのはお金ではなく、お金によって手に入る、何か別のものかもしれない。考えてみてください。あなたはどうして、お金が欲しいのですか?

翔太  だって……、お金があったほうが絶対に女の子にモテるじゃないですか。

支配人 モテる。

翔太  はい。まあ、男なら誰でもそうだと思いますけど。結局、モテるためには、ある程度お金を持っておかないといけないんじゃないかと思ってて。

支配人 お金がないとモテない? どうしてそう思われるのでしょう?

翔太  どうしてって……、どう考えたってお金があったほうがモテるでしょう。

支配人 そうでしょうか?

翔太  だって、太ってて顔もさほどイケてないおじさんでも、お金があるってだけで、美人と結婚してるじゃないですか。だから、俺みたいに、顔もスタイルも中の中くらいの人間だと、お金くらい持ってないとモテないですよ。

支配人 でも、いくら美人だからといって、あなた自身ではなく「あなたのお金が好き」という女性から好かれて、あなたはうれしいのですか?

翔太  まあ、そう言われると多少ひっかかりますけど、モテないよりかはモテたほうがいいじゃないですか。それに、お金がないとデートにも行けないし……。

支配人 デート? 公園でデートすれば、お金はかかりませんよ?

翔太  ははは! 公園って! 今どき中学生でもそんなデートしてないですよ。現実的に考えて、それじゃダメなんです。俺、貧乏時代があったからよくわかるんですよ。

支配人 貧乏時代?

翔太  ええ。今の会社に入る前、俺、新卒で入った会社を1年で飛び出したんです。それで、転職活動中に、短期の派遣社員の仕事を渡り歩いてた時期があって。日雇い労働みたいなことも、つなぎでやらなくちゃいけなくて。

支配人 それと、モテたいこととはどう関係が?

翔太  話せば長くなるんですけど……。そのころ、俺がそんな状態だと知りながらも好きになって告白してくれて、付き合ってた女の子がいたんです。当時なけなしの金をはたいて通っていた英会話学校で知り合った子でした。

俺も彼女のことが大好きでした。肉体労働してても、そのあと会えると思うと、何もつらくないって思える、俺にとって天使のような存在でした。いつも明るくって屈託のない笑顔で。俺が悲しんでいるときは心底一緒に悲しんでくれる、そんな子でした……。

翔太は、学校の帰り、二人並んで歩いた時間を思い出した。空気の澄んだ、ちょうど今と同じ秋の夜だった。

とても大事に育てられたのだろう。父親から、帰りを心配するメールがしょっちゅう届いていた。

「もう大人なのに心配しすぎだよね」

無邪気に笑いかけてくる彼女の声を聞きながら、翔太はじっと道の先を見つめていた。

というのも、彼女は、裕福な家庭で育った一人娘だったのだ。

彼女の立ち居振る舞いや言葉遣いに、ある種の神々しさを感じていた翔太は、ある日友人から「知ってる? 彼女のお父さんって、あの会社の取締役なんだよ」と聞いて合点がいった。友人の視線の先には誰もが知る日本最大手の自動車メーカーの看板があった。

きっと一等地にある大きな家に住み、日常的に高級なものを食べ、欲しいものは何でも買ってもらえる生活を送っているのだろう。

しかし彼女はそんな出自であることを鼻にかけるどころか、気さくで明るく堅実な、いわゆる「いい子」だった。

ただ、安定した収入もなかった当時の翔太にとっては、彼女のそんな清らかさが、同時に苦しみの原因でもあった。

もし彼女と結婚するとしても、彼女に裕福な暮らしをさせてあげることはできない。

このまま俺なんかと一緒にいたら、この子はきっと親戚中の笑いものになってしまう。

しかも日雇い労働なんかしている俺との付き合いを、彼女の父親は許してくれないだろう。

彼女に会うたび、罪悪感で胸が苦しくなった。

今の自分には、まだ彼女と付き合う資格はない。俺なんかが彼女と付き合っていてはいけないんだ──。

そう思った翔太は、みずから連絡を断った。

もっと自分が成長したら、きっと迎えに行こう。そのためにも努力しなければ。もっと……。もっともっと……。

モテている人だと思われたい

翔太  彼女はその後、何度も何度も連絡をくれました。でも俺は、そのたびに「まだ電話に出ちゃいけないんだ」と自分に言い聞かせました。結局、電話に出られたことは一度もありませんでした。もちろん出たかった。出たかったんです。だけど……。

支配人 しかしそれは、お金のあるなし関係なく、好きになってくれる人がいたということですよね。

翔太  でももし俺にお金があれば、彼女の思いを真正面から受け止められたはずなんだ……。結局その後、彼女とは完全に音信不通になってしまいました。あのとき、俺にお金があればって、何度も何度も悔いました。何度も何度も自分を責めました……。

ああ、もう、いいんです! こんな古い話。終わった話ですから。俺はもう忘れたいんです。だから今は、とにかく金持ちになってモデルみたいに美人な彼女を手に入れたいんです。そうすれば、きっと忘れられるはずなんです……。

支配人 なるほど、しかし、あなたはどうして、美人の彼女が欲しいと思われるのでしょうか?

翔太  えっ? なぜかって? うーん、誰だって、彼女はきれいなほうがいいんじゃないでしょうか。そこに理由なんて存在するのかなあ。

支配人誰だって、ではなく、あなたはどうなのか。それを考えてみてください。あなた自身は、なぜ「きれいな彼女」が欲しいのか。

翔太  うーん、俺自身が……? だってきれいなほうが……。

支配人 では、たとえば、あなたがものすごい美人と一緒にいる。そういった場面を想像してみてください。その彼女と、とても豪華なレストランに高級車で乗りつけ、ディナーを楽しんでいたとします。

翔太  はい。俺は、今、とてつもない美女と、高級レストランにいるわけですね。

支配人 ええ。あなたの好きな女優さんを想像してもかまいません。ゴージャスで、広い空間の中、楽しく彼女と会話をしています。

翔太  女優……。ああ、すっごく気分がいいでしょうね。大勢の人たちが、ポカンと口を開けて俺を見ている。

支配人 そうです。あなたはずっと夢見ていた「モテる」という願望を実現しているのです。しかし、こんなことが起こります。彼女の父親が急に倒れたと連絡が入り、マネージャーがもう車をレストランの前まで回してきている。彼女は、「ごめんね!」とだけ言い、レストランを突然飛び出し、あなたは一人になってしまいました。突然、ポツンと取り残されたあなた。そのとき、いったいどんな気分でしょうか?

翔太  えっ、びっくりするかな……。だってほとんど何の説明もなしにその場からいなくなってしまうんですもんね? だったら……いきなり高級レストランの席で一人にされると、挙動不審になる気がします。

支配人 挙動不審、というと?

翔太  なんかまわりから「あいつ一人だ」とか「ふられてやがる」って思われている気がして。なんか俺だけ、場違いだなっていうか、「いきなり一人にしないでよ」っていうか……。

支配人 彼女のお父さんが倒れたことについては?

翔太  えっ?

支配人 あなたは彼女や、彼女のお父さんへの心配よりも、自分がどう見られるか。そちらのほうが気になる、ということですか?

翔太  自分がどう見られるか? そうか、俺、自分のことしか考えてないですね……。

支配人 今の話からすると、あなたが求めているのは、「モテる」という事象ではなく「モテている人だと思われたい」。そういうことではないでしょうか?

モテたいという願望を口に出すのは、それほど恥ずかしくはなかった。「モテたいからバンドを始めた」というミュージシャンもいるくらい、男性にはよくある願望だと思っていた。だからこそ、深く考えることもしなかった。

しかし、支配人から自分の願望が「モテている人だと思われたい」だと言われたとき、心臓に枯れ草の先っぽでも刺さったかのように、胸の奥がチクリとした。

「モテている人だと思われたい」。

翔太はその言葉を反芻し、思いがけず、急に顔に血がのぼっていくのを感じた。

誰からうらやましがられたいのですか?

翔太  でも……何が悪いんですか?

支配人 悪い?

翔太  「モテてると思われたい」ってことがですよ! 世の中に「あいつはモテないヤツだ」なんて言われたい人います? いないでしょ?

支配人 ですから、一般論というのは、ここでは何の意味もありません。あなた自身がどう思っているのか、それだけが現実です。

翔太  だから、さっきから何なんですか。俺だけじゃなく、誰だって、人からうらやましがられたいに決まってるじゃないですか!

支配人 うらやましがられたい。いいですね。あなたは今、「みんな」を隠れ箕みのにしてではありますが、自分の本音に一歩近づいたようです。

翔太  いや、別にそう認めたわけじゃないんだけど……。

支配人 そうやって否定したくなるのは、あなたが「うらやましがられたいと思うことは醜い」と感じているからではないですか? その感情を「情けない」とタブーにせず、事実として認めましょう。あなたは、人にうらやましがられたいのですよね?

翔太  ……そうだったとして、何だって言うんですか……?

支配人 ではいったい、あなたは誰からうらやましがられたいのでしょうか?

翔太  え、誰から?

支配人 はい。誰から?

翔太  そんなの……いろんな人からじゃないですか? 詳しく考えたことがないからよくわからないけど……。

支配人 でしたら今、考えてみましょう。実際あなたは、誰からうらやましがられたいのですか?

翔太  そりゃもちろん女性にすごいって思われたら……。いや、あれ?

支配人 どうしました?

翔太  俺がうらやましがられたいのは女の子からじゃない。……もしかしたら、同性からかもしれない。

支配人 同性から?

翔太  そう……ですね。同性から、うらやましいと思われたい。いや、もっといえば「世間」からだ! 俺は「世間」からうらやましがられたいのかもしれない!?

支配人 なるほど。いいですね。どんどん核心に迫っているように見えます。では、もしもあなたがすでに、「世間から明らかにうらやましがられる存在」であったとしたら、そのときは、異性からモテる必要はなくなるのでしょうか?

翔太  ええと……はい……。まあ、それなら、あえてモテる必要もないような気がします。あくまで、世間的に見て、まわりの誰もがうらやむような生活を俺が送れているなら……ですけど。

支配人 そのときはもう、モテたいとは考えない?

翔太  もちろん本能的な欲求として、彼女が欲しいとは思うかもしれませんが。ただ漠然と「モテたい」という思いは、そのときにはないような気がします。だってすでに「人にうらやましがられている」っていう前提ですもんね。

支配人 では「モテる」以外で人からうらやましがられる方法があるとします。それが実現したら、もう「モテる」ということでうらやましがられる必要はなくなりますか?

翔太  まあ……、仮に、そんな方法があればですけど……。

支配人 気づいていますか? あなたの欲求は、どんどん核心に近づいています。

翔太  核心? どういうことです?

支配人 「ほんとうに欲しいものは何か?」ということです。

翔太  お金じゃなくて?

支配人 そう、最初は「とにかくお金が欲しい」でした。でも、その奥に「モテたい」という欲求が潜んでいました。そして、「モテたい」の奥にも「うらやましがられたい」という欲求が潜んでいた。

翔太  ……。

支配人 どうやらまだ、もっと深いところに理由がありそうです。あなたがそうまでして求めている「うらやましがられる」というのは、いったい何なのでしょう?

翔太  えっ、うらやましがられるって何か?

支配人 はい。あなたが欲しくて欲しくてたまらないもの、なのですよね? その正体は、何ですか?

翔太  何って言われても……。何なんでしょう。

支配人 往々にして人とはそういうものです。そんなに欲しいものなのに、あまり深くは考えようともしない。お金とか、フェラーリとか、物質的なものはわかりやすく「欲しい」と言えるのに、自分のほんとうの声は無視してしまう。しかし、そこにしか答えはないのです。さあ「うらやましがられる」とは、あなたがどうなりたいということですか?

翔太  俺がどうなりたいってことか……? それは……俺が「バカにされたくない」ってことかもしれないですね……。

支配人 バカにされたくない。もう少し噛み砕いて言うと?

翔太  えっと……人から下に見られたくない、みたいなことでしょうか。

支配人 人から下に見られたくない。なるほど。ただ、「バカにされたくない」ということと「下に見られたくない」ということは、似ているようで異質なものに思えます。

そうすると、あなたがおっしゃる「下に見られたくない」という欲求が具体的にどういうことなのかを、さらにひもといていかなければなりません。

翔太  そう言われても、それ以外思い浮かばないです。ああ、こんなに突き詰めて考えたのは初めてなので、頭ん中ぐちゃぐちゃになってきた……。

支配人 そうやって、自分の欲求が見えなくなってしまうのは、変なことだと思いませんか?

翔太  え? 変?どうしてですか?

支配人 あなたが子どものころ「お母さんに遊んでほしい」「あのお菓子が食べたい」といった欲求を、素直にぶつけていた記憶はありませんか?

翔太  そりゃありますけど……、だったらどうだって言うんですか……?

支配人 子どものころには、自分の「欲しいもの」がはっきり見えていたのに、今のあなたは見えていない。大事なものの上に、何重にも服を着ているような状態です。しかしそうなってしまったのは、厳密に言えば、あなたのせいではありません。

翔太  へ? 俺のせいじゃ、ない?

支配人 ええ。それは、あなたが他人と「比べる」ことでしか物事の価値を測れないような視点を、知らず知らず持たされてしまったからです。

翔太は、ぐったりしていた。

ずっと追い求めてきた「お金が欲しい」という目的の奥に、「人からバカにされたくない」という、なんとも消極的な目的が隠れている、と気づかされた直後だ。情けないような、でもどこか清々しいような複雑な感情が、翔太の中でぐるぐると渦巻いていた。

そんな混沌とした状況の中に「他人と『比べる』ことでしか物事の価値を測れない」という厳しい言葉が放り込まれた。

支配人が紅茶を淹いれてくれた。ティーカップに添えられたクマのクッキーが自分を笑っているように思えた。

翔太はこれから理解すべきことの重みを噛みしめるように、支配人にその意味を尋ねた。

他人と比較して自分の位置を決める

翔太  他人と「比べる」ことでしか物事の価値を測れない……? 俺が、人と自分をそんなに比較してるって言いたいんですか?

支配人 はい。あなたは先程「お金持ちになりたい」という話をされていましたよね。

翔太  ええ。それがどうしたんですか?

支配人 その言葉が出てくるのは、あなたが「お金持ち」と「貧乏な人」の間に、線を引いているからではないでしょうか。

翔太  ……線?

支配人 ほかにも世の中には「美人」「美人でない」、「勝ち組」「負け組」といったように、まず物事を分割し、それによって比較を生み出すという価値観が存在します。それによってあなたは「ほんとうに欲しいもの」が見えなくなっているのかもしれない。

翔太  えっと……。話が複雑すぎて……。

支配人 では、わかりやすく説明しましょう。ここに、クマの形のクッキーが一枚ありますね。これを、二つに割ってみましょう。

翔太  ……はい。二つになりました。

支配人 これを見て、どう思いますか?

翔太  え? 右手にあるほうがちょっと大きいな、とか?

支配人 そう、それが比較です。

翔太  え?

支配人 たしかに物理的にはこちらのほうが大きい。しかし、大きいほうも小さいほうも、もともとは一枚の、ただのクッキーでした。でもそれが分割されます。その瞬間に、比較が起こります。

「大きいほうがいいクッキーだ」「小さいほうはよくないクッキーだ」というように。でもその価値基準というのは、ほんとうに正しいのでしょうか?

翔太  まあ、いいか悪いかって言われたら、俺は甘いものが苦手だから、小さいクッキーのほうが「いいクッキー」なのかもしれないけど。

支配人 そうです。ある人にとっては「いい」ものでも、別の人にとっては「悪い」かもしれない。そう考えると、物事には本来「いい」も「悪い」も「上」も「下」もない。それなのに多くの人は「比較」によってあらゆるものを判断しています。

翔太  だけど、比較するのってごくごく自然なことじゃないですか? 俺よりカッコいい友達のほうがモテてたし、大学の同期で、超有名企業に就職したヤツがいたけど、そいつのほうがよっぽど勝ち組だし。

それを見て「うらやましい」「あいつみたいになれたらいいのに」って思うのは、普通だと思うんですけど。

支配人 人がなかなかそういった価値基準から抜け出せないのもわかります。しかし、「それは、その人自身にとってうれしいことなのか」という視点で眺めてみたら、どうでしょうか?

翔太  その人自身にとって、うれしいことか……?

支配人 たとえば世間的に勝ち組と言われている人の実情がこうだったとしましょう。有名企業に入っても、仕事を楽しめていない。毎日つまらない。どんなにお金のある結婚生活を送っていても、夫婦の間に愛情がない。寂しい。悲しい。あなたはそれでも、「勝ち組」になりたいですか?

翔太  いや、それは……、嫌ですけど。

支配人 しかし現実として、「他人に勝ってさえいればいい」「人から『勝ち組』と呼ばれれば、必ずしあわせになれる」と思い込んでいる人が大勢います。そういう人は、得てして人から「負け組」だと思われないように、必死で努力をします。

バカにされないように。ナメられないようにと。しかし、それが自分自身にとってほんとうにうれしいことなのか、検証すらしていない。

翔太  でも、「バカにされないようにしたい」っていうのは、本能的なものだと思うんです。だから、それをやめるのなんて無理じゃないですか?

支配人 どうして無理だと思われるのですか?

翔太  だって……事実、俺は過去に、他人に「バカにされた」経験があるからですよ。

支配人 なるほど。他人からバカにされた記憶がある。では、もし仮に、その記憶が吹き飛ぶとしますよね。そうすれば、「バカにされたくない」という思いは消えますか?

翔太  そんなの、そもそも記憶が吹き飛ぶわけないでしょう! 俺にとっては強烈な出来事だったんです。これは事実なんですよ?

支配人 これはあくまで仮の話です。急に記憶喪失になったと考えていただいてもかまわない。

翔太  そんなことあるはずがないけど……。まあ、もし記憶喪失にでもなれば、原因がなくなるわけですから、そのときは「バカにされたくない」という思いも消えるんじゃないですか。でも、そんな非現実的なこと言われても……。

支配人 では、よく考えてみてください。あなたの身に過去に起こったことは、ほんとうに起きたことですか?

翔太  ……は? どういうことですか?

支配人 過去に起きた、その出来事がです。

翔太  そんなの……、さっきから何聞いてたんですか! 俺は記憶喪失になったわけじゃないんだ。こんなにはっきり覚えてるんですよ?

支配人 落ち着いてください。その事実の意味を確認するのは、大事な作業です。ただ漠然と悩んでいる人が多いのですが、具体的な対象をはっきりさせることができれば、自分が今何に向き合っているのか明確になり、それだけに集中して考えればよくなります。それは、いつ起きた、どんな出来事でしたか?

そこまで聞くと、翔太の頭の中に、鮮明にあの日の光景が浮かんできた。

翔太にとって、それは上下関係を目の当たりにさせられる出来事だった。今思い出しても顔が歪むほどの絶望。見て見ぬふりをしてきたけれど「バカにされた」という実感と強く結びつく記憶が、翔太の中にくっきりと存在した。

息をのんで支配人を見ると、非常口の緑色のライトが、彼の輪郭を煌こう々こうと照らし出していた。鼻の奥に、実家の本棚のようなほこりっぽい匂いがよぎる。

翔太は覚悟を決めたように、肩の力をふっと抜いた。

発狂したように怒鳴りだして、俺のほうに走ってきて

翔太  中学1年の、夏休みのことでした。

支配人 13歳くらいのときですね。

翔太  はい。俺、小1のころからずっと、サッカー部に入ってたんです。

支配人 サッカーがお好きだったのですか?

翔太  いえ、当時の親友に誘われて、なんとなく入りました。そのチームは6年のときに全国大会に出たくらい強かったんですけど、俺自身は、正直、サッカーが下手でした。サッカーって、一度にいろんなこと考えなきゃいけないじゃないですか。俺、複雑なことを考えるのが苦手だから、フォーメーションとかもよくわかってなくて。そのせいで、ずっと……。

支配人 劣等感を抱いていた?

翔太  ……はい。サッカーのうまいヤツらに「あいつ下手だな」ってバカにされている気がして。あいつらに目をつけられていじめられたら、俺の学校生活は終わるって思ってたから、正直いつもビビッてました。

でも、その関係性のまま、同じメンバーで中学に上がったので、中学に入っても毎日が緊張の連続でした。

支配人 そんなに怖かったのなら、サッカー部をやめる、という選択肢はなかったのですか?

翔太  それは……なかったです。父に「一度始めたことはやめるな」って強く言われてたし……。あと、「あいつサッカー部を途中でやめたヤツだ」ってまわりから見られるのも嫌でしたね……。だから、続けなきゃいけないって思い込んでて。

支配人 それで、やめることもできなかった。

翔太  ええ。あれは初めての夏休みで、俺は、その日も朝からサッカーの練習に行っていました。8月の、太陽があまりに眩しい日でした。にもかかわらず、練習は厳しく、途中で水を飲むことも許されませんでした。

このままでは倒れてしまう。フラフラになった俺は、練習を抜け出して、休むことにしました。トイレに行くふりをして、トイレの蛇口で水だけ飲んで、校庭の端っこの木陰で少しだけサボッていたんです。

支配人 そうしなければ倒れてしまう状況だった。

翔太  そうです。でもそこに、運悪く、同い年のキャプテンと3人の部員が通りかかったんです。それでキャプテンは、発狂したように怒鳴りだして、俺のほうに走ってきて。

「お前何サボッてんだ。ふざけんなよ!」

そう言って、思いっきりゲンコツされたんです。

支配人 ゲンコツを。突然ですか?

翔太  はい。突然です。ここまでの話で、たいしたことじゃない、と思うでしょう? ゲンコツって表現すると、可愛いものだと思いますよね?

支配人 ええ、まあ。

翔太  でも普通、ゲンコツというものは、「目上の人間」が「目下の人間」に対してするものです。もちろん、俺は頭も痛かった。けれど、そうした物理的な痛みよりも、内面のほうが痛かったんです! 同い年の人間に見下した目で思い切り殴られたことが、すごくショックで……。

支配人 それがなぜショックなのですか?

翔太  ショックに決まってるじゃないですか! ……だって俺、倒れそうだったんですよ? それで仕方なく休んでただけなのに……。そのあとキャプテンは、ほかのメンバーもたくさんいる前で、俺を罵倒したんです……!

「こいつはみんなががんばっているときに、一人でのんきにサボッてた! どう思う?」って。あのときのみんなの責めるような目が、俺は今でも忘れられないんです……。「下っ端のくせにサボりやがって」っていう目が……。

支配人 ではそのとき、あなたはどういう気持ちになりましたか?

翔太  どういう気持ち!? だから……ものすごくショックでしたよ! 何回同じこと聞くんですか!?

支配人 どうぞ落ち着いてください。とても大切なところなのです。ショックというのは、単純に驚きであり、出来事に「反応」しているにすぎません。そうではなく、あなたの心の声を教えてほしいのです。

翔太  心の声?

支配人 思い出してみてください。そのとき、どんな声が聞こえましたか?

翔太  声? 声っていわれても……。

支配人 それがむずかしければ、そのときどんなことを感じていたかを思い出してみてください。

翔太  どんなことを感じていたか……。ええと……頭が真っ白になった。何も考えられなくなってしまった……。みたいなことですか?

支配人 「何も考えられない」というのは、どういうことですか?

翔太  つまり……その……これは全然大げさな表現じゃないですよ? だって当時の俺にとっては、学校というのは唯一の世界だったんです。俺はそれまで必死で、あいつらに下に見られるのを避けてきたんです。下に見られたが最後、いじめの対象になるのが怖かったからです!

それなのに、その恐れていたことが現実になってしまって……。「ああ、もう終わりだ」って思ったってことですよ!!

屈辱。恥ずかしい。悔しい。ムカつく。悲しい……。

当時のことを思い出すと、とても言葉にならないさまざまな感情が翔太の中に黒くうごめいた。たしかに、あの出来事が自分を縛っている。間違いない。

実際、中学を卒業してから何年も経つのに、そのキャプテンは何度か夢に出てきたことすらある。

いや、それどころか、当時のあの状況を思い出すと、翔太はいまだにピンと張り
つめた緊張感におそわれ、ひんやりとした汗まで感じるほどだった。

自分自身のほんとうの価値

翔太  ああ、何て言っていいかわからない! とにかく世界の終わりみたいな……絶望的な気持ちです!

支配人 絶望的な気持ち。あなたの心の中に、そのときの絶望は厳然として存在している。

翔太  ……はい。それはもう、くっきりと。

支配人 では、あなたは、その絶望と形容するほどの悲しみを抱く必要が、ほんとうにあったのでしょうか?

翔太  ああもう、何なんですかあなたさっきから! 俺が悲しむ必要があったかどうかなんて、俺の意思とは関係ないじゃないですか!?

支配人 ええ、意思とは関係ありません。ただ、事実を見つめましょう。極めて客観的に見て、その出来事はあなたのせいなのでしょうか?

翔太  そんなわけないじゃないですか! あいつらが勝手に……。

支配人 そうですよね。それは、運悪く何らかの交通事故にあったようなものです。

翔太  事故……?

支配人 そうです。事故。なぜならあなたは、悪気があったわけではないですよね? 水を飲まなければ倒れてしまう状態だったから、ただ飲んだ。そこに、キャプテンがやってきて突然暴力を振るわれた。

翔太  それはそうですけど……。

支配人 だとしたらそれは、目的地に向かってただ運転していただけなのに、ほかの人から車をぶつけられた、事故のようなものだと言えるのではないでしょうか。

あなたには何の過失もない。それなのに「自分は事故にあうべき人間だった」と責めながら生きていくべきだと思いますか?

翔太  そ、それは……。でも、同級生に殴られたのと交通事故にあったのとでは、話が違いすぎるでしょう!?

支配人 果たしてそうでしょうか。あなたが殴られたことによって、ほんとうにあなた自身の価値は変わったのですか?

翔太  価値? それは変わったでしょう。だって殴られて、たんこぶもできたし、俺は同世代の人間より下だってレッテルを貼られてしまったんですよ? 明らかに俺の価値は下がってるでしょう!

支配人 それは、「上か下か」というような、比較にもとづく「価値」の話ですよね? わたしが問いたいのは、そういった価値ではありません。

翔太  はい? じゃあ、ほかにどういう価値があるっていうんですか?

支配人 その人の、本質的な存在価値、のようなものです。これは自分自身ではなく、他人に置き換えて考えたほうがわかりやすいかもしれません。

翔太  は? どういうことですか……?

支配人 そうですね。たとえば、あなたの大切な友人のことを頭に思い浮かべてみてください。

翔太  友人ですか……? じゃあ……高校時代からの親友のことを考えてみます。冒険心に富んでいて、いつも俺を励ましてくれるいいヤツです。

支配人 それではそのご友人が、なんの過失もないのに突然街中で誰かに殴られ、激しく罵倒されたとします。あることないこと、友人を否定する言葉が次々に聞こえる。

翔太  え……めちゃめちゃ腹立ちますね。

支配人 そんなことがあったら、あなたはその友人に対して「お前は人からバカにされたんだからもう終わりだ。一生『自分はバカにされるべき人間なんだ』って思いながら、ふさぎ込んで生きていけよ」などと言いますか?

翔太  なっ、そんなこと言うわけないじゃないですか!

支配人 つまりその友人の価値は、殴られたことでは変わらない?

翔太  価値? そんなの、変わるわけないじゃないですか! あっ……。

支配人 どうされました?

翔太  あなたが言ってる価値って……。

支配人 ええ、どうされました?

翔太  そういうことですか……?

支配人 はい。あなたが大切に思う友人に今抱いている、そのような感覚のことです。

翔太  ……。

支配人 それでは改めて問います。ご友人は街中で突然殴られ、激しく罵倒された。そのせいでアザや傷はできたかもしれません。でもだからといって、ご友人の「本質的な存在価値」には、何か変化はあったでしょうか?

翔太  いや……それは……何も変わらないですね。あいつがいいヤツだってことも、俺があいつを信頼してるってことも。そこには何の変化もない。

支配人 そうです。彼の価値は、他人にどう言われようと、何をされようと、決して揺らぐものではないのです。

翔太  なるほど……あなたがおっしゃっている「価値」がどういうものかは、理解できたような気がします。

支配人 では、改めてお聞きします。大切な友人が深く傷ついているとき、あなたは、彼にどう声をかけますか?

翔太  そりゃあ……「別にほかの人間がお前のことを何て言おうが関係ない。お前はお前なんだから、気にせず生きていけばいいんだよ!」って言うと思います。

支配人 なるほど。でしたら、同じことを自分自身に言ってあげることはできないでしょうか?

翔太  えっ?

支配人 あなたが友人にそんな言葉をかけられるように、あなた自身にも「人に何を言われようと、何をされようと、自分の本質的な価値は何も変わっていないのだから、気にせず生きていけばいいじゃないか」と言ってあげられないでしょうか?

翔太  そ、それは……。たしかにそんな声をかけてあげられれば、ラクになれるっていうのはわかるんですけど……。でも、自分のこととなると、どうしてもあいつらの顔がちらついて……。

支配人 あいつら? わかりました。どうしてもその記憶が強いのですね。ではそもそもその、あなたを「バカにした」とされる同級生は、今も、あなたのことをバカにしているのでしょうか?

翔太  あいつらが、今も俺をバカにしているか……?

翔太は、1年前に実家に帰ったときの、同窓会のことを思い出した。

自分を殴った元キャプテンを見返してやりたい。その一心で、無理して買ったブランドもののジャケットに、高級時計を身に着け、完全武装して向かった。

しかし、会場に着くと、元キャプテンは親しげに「おお、翔太じゃん! 元気だった?」と話しかけてくれたのだ。

その笑顔は翔太をバカにするようなものではなく、久しぶりの友人に会ってただただうれしい、という屈託のない笑顔だった。

「ああ、こいつは、俺を殴ったことなんてとっくに忘れてるんだ」。

そう思うと、肩すかしをくらった気分だった。

ナメられないように、バカにされないように

翔太  この間同窓会で会った感じだと、すごく親しげに話してくれました。同窓会が決まったときからビビッてたんで、ほんとうにびっくりしましたけど……。

支配人 ということは今現在、彼はあなたをバカにしていない。あなたのことを、気にもしていない。

翔太  えっ?

支配人 だって彼は、あなたを殴ったことを覚えてすらいないのですよね?

翔太  そう、ですね……。たしかにあいつはもう俺のことなんて気にもしてない……。まだそんなこと気にしてるのは、俺だけだったってことか……。なんで今の今まで、そんな単純なことに気づかなかったんだろう……。

支配人 それでは、あなたはその出来事……つまり事故にあったようなことを、今まで引きずる必要があったのでしょうか?

翔太  必要……そうですね。俺、ずっと引きずってましたね……。しかも、その殴られた瞬間なんて、キャプテンと3人の金魚のフン以外、誰に見られていたわけでもないのに……。自分だけ屈辱とかいって、恥ずかしがって……。

支配人 そう考えると、先程わたしがうかがった「ほんとうにあなたはバカにされたのですか?」といった質問の答えも変わってきませんか?

翔太  あいつに殴られたことは、ただの事故のようなものだし、俺の価値はまったく変わっていない。しかも俺は、相手が覚えていないくらいささいなことを、勝手にショックとか言って……引きずっていた……だけ?

支配人 あなたはその勝手な思い込みを原動力に、今までずっと彼らを見返したいと思っていた。

翔太  そう……ですね。俺は、俺を見下してきたあいつらに「翔太すげぇな」って言わせたかったんですね……。

そうか……、だから俺……、今まで、お金が欲しいとか、モテたいとか、そういう「勝ち組にいる自分」になって、あいつらのことを見下してやるんだって息巻いてきたのか……!!

翔太は、頭を抱えた。

自分は今まで何と戦ってきたんだ……。

そのまま体を座席にもたれさせ、目を閉じてゆっくり息を吐き出した。

劇場のひんやりとした空気を思い切り吸い込むと、喉の奥が、砂漠のように渇いていた。

そんなに簡単に捨てられるものではない

翔太  あの。

支配人 何でしょう?

翔太  たしかに俺は、殴られたことを勝手に引きずってました。あいつを見返す必要なんてないってことも、頭ではわかるんです。でも……。

支配人 でも?

翔太  でも正直、俺にはまだお金が欲しいとか、モテたいって気持ちがあります。今だってここに札束を出されたら「欲しい」と思ってしまうし、もし帰り道で可愛い女の子に声をかけられたら舞い上がってしまう。どうしても、この欲求を捨てられる気がしません……。

支配人 わたしは、そういう欲求を捨てなさいという話はいっさいしていません。あなた自身が捨てたくないなら、捨てる必要はありません。逆にほんとうに欲しいと思うならば、努力してそれを得ればいいだけの話です。

翔太  だけど……。

支配人 ただ、もし仮に、そういった欲求をあなたが「捨てたい」とほんとうに思っているのに、捨てられないとしましょう。それは、無理からぬことです。なぜなら、あなたは知らず知らずのうちに「洗脳」されているのですから。

翔太  洗脳? 俺が……!? あなたはまた極端なことを言いますね……。いったい誰に、俺が洗脳されてるっていうんですか?

支配人 この社会に、です。

翔太  社会? 社会って言われても……よくわからないんですけど?

支配人社会の構造が、あなたのほんとうに欲しいものを見えなくさせている。ほんとうは必要でないものを、あなたに「必要だ」と思い込ませているのです

翔太  俺にですか?

支配人 ええ、ただそれは、あなたにだけではありません。たとえばあなたのそのブランドものの時計。

翔太  時計? ああ……これ?

支配人 はい。その時計、ほんとうに必要ですか?

翔太  必要? そりゃ必要ですよ。俺、営業だし、時間見たいし。

支配人 ほんとうに? 携帯電話でも時間は確認できますよね?

翔太  ……そりゃあ……そうですけど。

支配人 まあ百歩譲って、時計という機能を求めるのであれば、何もあなたがされているようなブランドものの時計を身に着ける必要はありませんよね?

翔太  それも……そうですけど……。だって俺、いい会社に転職したから、ある程度高い時計してないと同僚から笑われちゃうと思ってたから……。

支配人 高い時計をしていないと、笑われる。その「脅し」を信じ込んでしまうわたしたちは、欲しくもないものを買うために必死になって働く。ときにはやりたくないことをやってでも。そしてそこでストレスを溜め込み、そのストレスを発散するためにまた消費をする。

翔太  でも、そんなのみんなやってるじゃないですか。なんでそれがダメなんですか?

支配人 ダメなわけではありません。その人自身が心から望んだものなのであれば、別にかまわないと思います。しかし問題は、みなさんが、決して好き好んで、自分の意思で、その不毛な争いの中にいるわけではないということです。

翔太  まあ、俺も別に深い考えがあって、この時計をしてるわけじゃないけど……。

支配人 経済というのは、商品を買わせるために、「これがないと仲間はずれになりますよ」「こうじゃないと笑われますよ」「持ってないと恥ずかしいですよ」と、わたしたちを脅してきます。そうやって、ほんとうは必要ないものを欲しがらせる。

翔太  でも、経済を回すには、お金が回らないとダメですよね? みんながたくさんお金を使うのは、別にいいんじゃないですか?

支配人 それがいいとか悪いとかいう話ではありません。問題は、このシステムが、人々の恐怖を利用することで動いているということです。

翔太  恐怖?

支配人 ええ、「人にバカにされたらどうしよう」「人に尊敬されていないのではないか」「人から下に見られたくない」。そういった恐怖が虚栄心を生み出します

ステータスがないといい出会いに恵まれないからと、人は高級時計や高級車を欲しがります。なぜなら、社会から「そのままの自分」なんて認めてもらえるわけがないと思い込んでしまっているからです。

翔太  でも……つまりあなたは、そういう価値観から離れて生きたほうがラクだ……っておっしゃりたいんですよね? まあ、「モノより思い出」とかって言いますもんね。そういう考え方も、なんとなくはわかりますよ。

ただ、ほとんどの人間がそういう価値観にもとづいて生きている以上、一人だけそんなふうに生きるのってむずかしくないですか?

支配人 あなたは先程、過去に起きた出来事が、じつは、自分の本質的な価値にはまったく関係なかったことを実感したはずです。

翔太  それはよくわかりました。だけどそれとこれとは話が違う。「俺の価値は変わらないから」って自信を持ったとしても、変な格好してたら、まわりから「ダサい」とか「カッコ悪い」って思われちゃうじゃないですか?

そんなの嫌ですよ。人の目を気にせずに堂々と生きていくなんて……俺にはどうしてもできる気がしません……。

支配人 ほう、人の目ですか……。なるほど、いいでしょう。では、あなたがしきりに気にされているその「人の目」というのは、いったい何なのですか?

翔太  人の目って何か……? そりゃあ……、「世間」とかそういうことでしょ?

支配人 世間……。その世間というのは、誰のことですか?

翔太  誰? 誰って言われてもな……。まあ……、まわりの人とか?

支配人 まわりの人。その「人」の正体とは、何なのでしょう?

翔太  人の正体? 人……。うーん、たとえば、電車の中の人とか……?

支配人 電車の中。なるほど、では、実際に、電車の中で、あなたを面と向かってバカにした人はいたのですか?

翔太  面と向かってはいないですけど……、心の中で「あいつダサいな」って思われてる気がするんですよ。

支配人 気がする。ほんとうに? 具体的に、誰があなたを「ダサい」と思っているというのですか?

突然、目の前がパッと明るくなった。

翔太は思わず目を細めた。あれ……?

目の前の舞台に下げられた真っ白なスクリーンに、電車の中の光景が、大きく映し出されている。

かなり混んでいるところを見ると、どうやら朝の通勤時間のようだ。中年のサラリーマンが中吊り広告をぼんやりと眺め、通学途中の女子高生二人が楽しそうに話し込んでいる。

その群衆の中に……、翔太がいた。

なんで俺の映像がここに……?

一瞬そのことが気にかかったが、すぐに自分の様子に意識が持っていかれた。

ああ、なんだこいつは。

転職したときに、自分を鼓舞するために買った高いカバンが、どう見ても分不相応だ。

「がんばってるヤツ」に見えてしまって、痛々しい。背伸びして買った一いっ張ちょう羅らのスーツも、着せられている感じがして全然似合ってない。

それだけじゃない。まわりを気にして、どこかおどおどした態度に見える。

なんてみっともないんだろう。

客観的に、自分が置かれている状況の映像を見て、翔太は、はたと気づいた。

誰も、俺のことなんて、見ていない


見ていないのだ!

翔太は、飛び上がるように席を立った。

ほんとうは、何も得なくてもいいかもしれない

支配人 どうですか? 誰か、あなたのことをバカにしている人はいましたか?

翔太  いました……。

支配人 それは、誰ですか?

翔太  ……まさかの、俺だ。

支配人 あなた。

翔太  はい……。俺です。俺自身です。

支配人 そうですか。あなたのことをバカにしているのは、ほかならぬあなた自身だった。それを一度肯定してみましょう。話はそこからです。

翔太  ああ、なんてことだ……。

支配人 実際は、誰も、あなたのことをバカにしていないわけですよね?

翔太  そうですね……。

支配人 あなたは、ほんとうは存在しないはずの「人の目」を、あたかも存在するかのように感じていた。

翔太  はい……。

支配人 あなただけでなく多くの人が「世の中に」とか、「お隣さんに」とか、いろいろな主語となって人の目の存在を表現します。

翔太  ……子どものころ、よく近所のおばさんが、「翔太くんも世間様に笑われないようにしないと」って言ってたんですよね……。でも、たしかに「世間様」なんて人、どこにもいないですね……。

支配人 あなたは過去の体験によって、人より「上か?」「下か?」で物事を判断し、とにかく人から下に見られないようにするクセがついてしまったのかもしれません。

翔太  はい……。あの日以来、俺はそうやって自分のことを必死に守って。人に見下されない人間にならないと、いつまでもしあわせになれないと思って……。だから、知り合いなんていもしない街中を歩いているときでも、カッコつけて……。

支配人 精一杯の虚勢を張っていた?

翔太  ああ……。ものすごく虚勢を張って歩いていました。でも、そうだよな。街を歩いている他人とか、カフェで偶然居合わせた他人が、俺をバカにしてるはずなんてないんだよな……。

だって俺だって、そんな知りもしない人のことバカにしないというか、気にもしていないし……。人の目なんて、ほんとうにただの妄想だったんだ……。今……俺は……、誰にもバカにされていない!

支配人 そう考えると、今この場で、あなたが自分をバカにすることをやめるだけで、もう「人の目」を気にしなくてすむのではないでしょうか

そこで仮に、これからも自分をバカにし続けて、死ぬまでずっと「人の目」を気にして生き続けたとしましょう。そうすると、あなたの人生は?

翔太  ……俺の人生じゃ、ないみたいだ……。

支配人 そう。多くの人が、あなたと同じように、まったく根拠のない後ろめたさに、自分の人生を乗っ取られてしまっている。それを人は、コンプレックスと呼びます。

翔太  コンプレックス……。

支配人 その、ただの幻であるコンプレックスのせいで、自分はダメな人間なのだと洗脳されています。ゆえに、コンプレックスという穴を埋めることを目的とした、夢を叶えるための本や、お金持ちになるための本が街にあふれている。

翔太  俺も、そういう本、何冊も買いました。

支配人 あなたの好きな自己啓発書の、すべてを否定するわけではありません。しかし、そういった類の多くの本は、最初から「何かを得る」ことが前提になっています。痩せるためにダイエットの本を買う。恋人を作るために恋愛指南書を買う。お金持ちになるためにビジネス書を買う。

翔太  そういう本が、悪いってことですか?

支配人 いいえ。もちろんそれ自体が悪いわけではありません。

でも、問題なのは「そもそもほんとうに恋人が欲しいのか?」「そもそもほんとうにお金が欲しいのか?」「そもそもほんとうに痩せたいのか?」という問いかけをしないまま、いきなり「何かを得るためのノウハウ」から話が始まってしまっていることです

ほんとうは、何も得なくてもいいかもしれないのに。

翔太  何も得なくてもいいかもしれない……? それって、どういうことですか?

支配人 あなたは先程「美人な彼女が欲しい」などといった「得たいもの」についてお話しされていました。しかし、今もまだ「欲しい」と思われますか?

翔太  まあ完全に欲しくないとは言い切れませんけど、モテることも、「人からバカにされない」ための、ただの武装だったのかもしれないってことはわかりました……。

支配人 あなた自身が実際に「モテたい」わけではなかった。それなのに社会の側が「モテたほうがしあわせになれるよ」とささやいてきた。

あなたのように、社会からコンプレックスを押し付けられた人は「変わらなければ自分は価値のない人間だ」「生きていく資格のない人間だ」と感じて、それを解決する本を手に取ってしまいます。でも、その人たちは、ほんとうに変わらなければならないのでしょうか?

翔太  ほんとうに変わらなければいけないのか?

支配人 もちろんそういった本を、あなたがもしも心から求めているなら、いっさい否定はしません。ただ、かつてのわたしのように、手に入れたあとで、それがほんとうに欲しいものでなかったと気づいたときには、人生が終わっているかもしれません。

翔太  それは……恐ろしい話ですね……。

支配人自分が欲しているものを突き詰めて考えた結果、それがお金だった。異性だった。そういうことなら、必死で手に入れる努力をしてください

100億でも1000億でもいい。歯を食いしばって稼ぐだけ稼いでください。モテるだけモテてください。ノウハウを駆使して、あらゆる手段を使って、その目的を叶えようではありませんか。

翔太  それが……俺がほんとうに欲しいものだったとしたら。

支配人 はい。ただその行動に出るべきときは、自分と向き合い、「何が欲しいのか?」という問いに対し、明確な答えを出せたあとにです。

翔太  そうですね……。

支配人 結局「自分が変わる」という考えは、多くの場合「今の自分ではない別の人間に変わる」という考えです。これは、自分で自分の生き方を選んでいるようでいて、じつは選んでいないということです。

翔太  俺は今まで、知らないうちに、他人や社会が望む人生を送ろうとしてたってことなのか……。

支配人 すると、本来持つ必要もないコンプレックスを克服すること、「他人から見た自分」を演じることに、人生の大半を費やしてしまうことになるのです。

翔太  そうすると、一生、自分がほんとうに望んだ人生なんて送れるはずがないですね。最初から目的地がずれちゃってるんだもんな……。

支配人 果たしてほんとうにわたしたちは、そんなにダメな人間なのでしょうか? 今の自分にはつねに何かが足りなくて、違う自分にならなければいけないと信じ込むのは、自分があまりにかわいそうではありませんか?

翔太  そうですね……。俺はダメな人間で、違う自分にならなきゃいけないって思ってた。でも、そうじゃない。自分が欲しいものも知らないで、このまま一生を終えてしまうところだった……。

支配人自分の人生の方針を、世間の目を気にして決めたり、他人の期待に応えるために費やしたり、そんなことのために自分のやりたいことにフタをし、明け渡してしまってはいけません

ここまで自分の思いを掘り下げることができたあなたになら、きっとそれが見えてくるはずです。過去にこんなことがあったとか、他人からどう思われるかとか、人にこんなことを言われたとか……。

そんなことは、あなたのこれからにとって、まったく関係のないことではありませんか。

翔太は駐車場に停めていた、黄ばんだ白い営業車に乗り込んだ。いつもは舌打ちしながら荒々しくキーを突っ込んでいるのだが、今日はなぜか、そっと差し込んでからエンジンをかけていた。

なぜ俺は、あんなにビクビクしていたんだろう。自分を取り巻いていた無数の目が嘘のようになくなり、これまで感じたことのない不思議な爽快感を味わっていた。

家に帰った翔太は、それまで本棚にびっしり詰まっていた自己啓発本を勢いよく引き抜き、段ボールに詰め込んだ。朝起きてから夜寝るまで何度も眺めていた、フェラーリのポスターもはがした。

その中に、どうしても捨てられない一冊があった。それは、昔の彼女から誕生日プレゼントにもらった『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』という本だった。その彼女とは、自分がしあわせにできないと思って泣く泣く別れた、あの子だった。

その3年後、彼女がほかの男性と結婚したことを友人伝手に知った。相手は、有名でもお金持ちでもない、まだ駆け出しの建築家の卵だった。

切ない思い出が頭をよぎり、何気なくパラパラと本の中身を眺める。

すると、こんな言葉が書いてあった。

「今の自分にはつねに何かが足りなくて、違う自分にならなければいけないと信じ込むのは、自分があまりにかわいそうではありませんか?」

今日、支配人に言われた言葉だった。

翔太は、しばらく動けなかった。

彼女は、あの時代の、俺から見たら「足りないものだらけ」だった自分を、好きでいてくれたのだ──。そんなことにも気づかず、俺は、存在しない「人の目」ばかり怖がっていた。

それは俺が、彼女のことを、彼女自身を、まったく見ていなかったということ。俺は、俺のことばかり見ていたということ。

彼女はそんな俺を、あるがままの俺の姿を、ただまっすぐに見てくれていた。「足りないもの」なんて、そもそも存在しなかったんだ。それなのに……。

昼間はあんなに蒸し暑かったのが嘘のように、冷たい風が部屋に流れ込んできた。遠くからかすかに、まだ鳴き始めたばかりの鈴虫の声が聞こえる。

開いたままのページへ、涙が次々に落ちていく。翔太はそのまま、本を閉じることができなかった。

自分の心の奥底の感情を呼び起こす自己啓発小説

対話を重ねていくうちに、悩みの本質にどんどん向き合っていく登場人物たち。同じ悩みを抱える人が読んだら、きっとその姿を自分に重ねてしまうはずです。

自分と向き合う物語」という副題のとおり、支配人は登場人物ではなく、読んでいるあなた自身に対しても問いを投げかけてきます。

紀里谷さんが4年半の歳月をかけて書き上げた同作を読んで、ぜひ自分の価値観と向き合ってみてください。

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