ビジネスパーソンインタビュー
「動画のヒットに電車のホームで涙ぐみました」
200円の定食を4年間食べつづけた。ヒカキンが語るストイックなサラリーマン時代(前編)
新R25編集部
記事提供:FROGGY
動画共有サイトYouTubeに投稿し、広告収入を得る「ユーチューバー」。小中学生のなりたい職業ランキング上位に登場し、いまやタレント並みの人気を誇る存在です。今回は、日本のユーチューバーの第一人者であり、チャンネル総登録者数1100万人を誇るトップユーチューバーのHIKAKINさんに、「プロの仕事とお金」について伺いました。
「僕には動画がある」と思い続けた会社員時代
――HIKAKINさんが最初に注目されたのは2010年。口で楽器の音を出す、ビートボックスの「マリオビート」動画が世界中でバズった時のことです。当時はアマチュアでビートボックスを続けつつ、サラリーマンをしていたんですよね。
サラリーマン時代は、めちゃくちゃストイックでした。
高校3年生まで新潟県妙高市で育った僕は、卒業後、上京して都内の小さいスーパーに就職しました。食品部門に配属され、早朝から品出しや倉庫整理をするのが日課。田舎しか知らない僕にとって、慣れない満員電車で通勤し、力仕事をするのは大変でした。店がオープンする9時にはもうクタクタ、ということもありました。
そんな仕事を終えて帰宅し、夜はビートボックスの練習と動画作り。社員寮に住んでいたのですが、そこが壁のうっすい、ワンルームの木造アパートで。隣の住人のくしゃみが聞こえるくらい、音が筒抜けなんです。迷惑だから声を張れなくて、よくちっちゃいユニットバスに入って、窮屈な姿勢で動画を撮っていましたね。
ビートボックス・パフォーマンスの動画(2009年)
睡眠時間を削って動画を編集して、UPして。また朝になったら、スーパーに行く。体は疲れていたはずなんですけど、両立できたのはYouTubeが気持ちの支えになっていたからです。
僕は中学2年生から本格的にビートボックスを始めて、高校2年生で、日本ではまだあまり知られていなかったYouTubeのアカウントを取得しました。最初は海外の動画とかを見て「すげえ!」と思ってたんですけど、だんだん、自分も参加してみたくなって。
ビートボックスは大好きで、中高のころは毎日、サルみたいに練習してました。少しずつうまくなってくのが、ただただ楽しいんですよ。実家の家族は最初うるさいと思ってたようですが、途中からあきれて何も言わなくなりました。上京して、働きながら動画をUPしていたのも、やっぱり楽しかったから。
夜の社員寮でビートボックス動画を何回も撮って、100%うまくいったと思えるものを厳選して、UPする。翌朝、起きてすぐにパソコンを開き、反応を確かめる。再生回数が伸びていたり、そうじゃなくても海外から視聴されたり、コメントが来たりしている。よっしゃ!と思いながら、スーパーに行く。それが毎日の支えでした。
そうやって少しずつ視聴者が増えていって、とうとう2010年6月17日、マリオビート動画がスーパーヒット。アクセスが急激に伸びていくのを信じられない気持ちで見ながら、僕はスーパーに向かう通勤電車のホームで、涙ぐみました。
あの喜びが、僕の原点です。
店頭でお客さんに怒られても、上司に嫌味を言われても、自分にはYouTubeがある。正直、好きなことを仕事にできていないサラリーマン時代は、つらかった。でも、「僕は、ただのサラリーマンじゃない。動画を作って、海外からもたくさん見られてるんだ」という意地があったから、仕事も続けられたと思います。
200円の定食を食べ続けた日々
――会社以外の時間は、ビートボックスの動画制作にひたすら打ち込んでいた。
そうですね。空いた時間はすべてビートボックスとYouTubeに費やしていました。あとは、貯金をがんばってました。
――貯金ですか? YouTubeだけで食べていくための資金として?
そのころはユーチューバーになるなんて思ってもみませんでした。日本には、まだYouTubeで生計を立てている人はいませんでしたから。どちらかというとビートボックスのほうで、食べていける道が見つかったら、会社を辞めてそっちにいくお金を持っておきたいとは思っていました。
社会人になったころは、本当にお金がなくて。銀行の預金口座も持たず、貯金ゼロ。実家でもらった2万円を握りしめて寮に入って、会社から給料が振り込まれるのを待ちました。2週間くらいで研修が終わって、手当をもらえたのですが、それまでお金を減らすのが怖かった。値引きシールのついた食パンを買って、実家から持ってきたココアの粉をかけて食べて、なんとかつないでいました(笑)。
初任給は13万円くらい。1年目は動画を作るためのビデオとパソコンを買って、あとストリートライブをしたかったのでスピーカーも買って、10万円くらいしか貯金できなかった。
最低限の機材をそろえた翌年は、ひたすら貯めました。朝ごはんは、コンビニの肉まん1個。昼と夜は、社食で一番安い200円の定食と決めていました。冷たいご飯とぬっるい味噌汁におかずの定食を、4年間食べ続けた。
全然美味しくないから、同期のみんなは外食するんです。特に女子は、ファミレスとかでランチを食べてる。それじゃ、貯金なんてできるわけない。
休みの日は業務用のそばを買って、1食分ずつ茹でて食べるのが習慣でした。遊びもコンパも基本、行きません。だって1回飲んで3000円とか、ありえない。会社の付き合いで行かなきゃいけないときは、お金が減るのがつらかった。他にも一切お金を使わず、時々、1万円しない程度の洋服を買うのが唯一の楽しみでした。
そういう生活を続けて、会社員2年目で、100万円貯金できました。
――ストイックな生活ですね…。みんなが美味しいもの食べたり、遊んだりしている中でそういうことができたのは、夢があったから。
いつか辞めるという目標があったからでしょうね。何もなければ、ふつうにお金を使ってたと思います。2012年1月に会社を辞めてユーチューバーになるのですが、その前に一度だけ、奮発して昼を牛丼屋さんで食べたんです。4年間働いて、最初で最後の外食。300円ちょっとの牛丼が本当に美味しくて。ああ、みんなは外でこんな美味しいもの食べてたのかって、衝撃を受けました(笑)。あの味は、今も忘れられません。
生き方のモデルを見つけた瞬間
――「会社を辞めてユーチューバーになる」という明確な目標ができたのは、いつごろだったんですか。
最初は、YouTubeで食べていけるとはまったく思っていませんでした。「マリオビート」が1週間で100万アクセスを突破して注目された後、YouTubeから連絡が来てパートナー(動画のアクセスに応じた収益を受け取れるシステム)になりました。それでも、稼ぎはお小遣い程度。
その翌年、フジテレビのアカペラ甲子園『ハモネプ ボイパリーグ』で優勝し、いくつかテレビにも出演しました。そのときもやっぱり、YouTubeでは生計を立てられないので、「もっとテレビに出ないと、仕事にならないかな?」と考えていたほどです。
転機は、2011年6月に開かれた「YouTubeパートナーフォーラム」でした。ここで、アメリカの超人気ブロガーであり、YouTubeパートナーのミシェル・ファンさんの講演を聞きました。彼女は、こう言ったのです。
HIKAKIN著書『僕の仕事はYouTube』より「今、私は自由で、望んだ通りの生活をしています。私のボスで、プロデューサー、マネジメントをしているのは、私自身だから。好きな時間、たとえば夜中の2時に起き出して、自宅でメイクレッスンの動画を、時間を気にせず、納得いくまで作り、YouTubeにUPする。それだけ。大好きなことを、時間にも場所にもとらわれず、心から楽しんですることで、それが立派な『仕事』になるのって、最高に幸せ!私の夢は、YouTubeでかないました」
僕も、大好きなものを持っている。青春時代を練習につぎ込んだ、ビートボックス。それを動画にUPして、みんなに見てもらう喜びを知っている。それを思う存分やって、生活していくだけの収入になる道が、あるのかー。
夢のような話だけど、実現した女性が、目の前にいたのです。すげえと思った。僕がしたい生き方はコレだと思った。
ユーチューバーという夢が見つかった瞬間。ここから僕は、「どうしたらYouTubeパートナーとして食べていけるか」を試行錯誤していきます。
中編へつづく。
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