堀江貴文著『捨て本』より

人付き合いには、刺激の賞味期限がある。ステージごとに人間関係はリセットしよう

ライフスタイルby 新R25編集部
堀江貴文さんは現在、家を持たずにホテル暮らし。必要なものはスーツケースに収まる程度と、徹底的にモノを捨ててきました

新著『捨て本』は、そんな堀江さんの“捨てる”哲学をまとめた一冊となっています。

モノのみならず、既存の価値観も捨ててきたことで、今の自分がある」という堀江さんの“捨てる”哲学から、人間関係に関する内容を2記事でご紹介します。
捨て本

捨て本

子どもの頃から、あまり友だちはいなかった。

ひとりもいなかったわけではないけれど、すすんで友だちを増やしたい方ではなかった。

人と話すのが苦手ではない。でも、コミュニケーション上手とも言えない。

おしゃべりは大好きなのだけど、場の空気を読んで、僕の方があれこれ気を回さなくてはいけない相手とは、一緒にいたくはない。

刺激的で面白い会話のできる相手となら、仲良くしたい。コミュニケーション下手だけど、孤独を愛しているわけではないのだ

実はけっこうな寂しがり屋で、楽しく過ごせる相手はいっぱい欲しいし、ずっと面白い仲間に囲まれていたいと思う。

寂しがり屋なのに、特に友だちはたくさんいらないと考えているのは矛盾じゃないかと指摘されるかもしれないが、そうだろうか?

一緒にいて楽しい人と出会い、つまらないやつとは過ごしたくないと考えているだけだ。

友だちの基準みたいなものが、人にはある。

第一は「話が合う」ことだろう。僕もそうだ。

ただ、話が合わないと少しでも感じたら、もう、一瞬で捨てる

関係を維持するための気づかいやコストは一切、払いたくない。

身勝手で冷たいと思われるだろう。

だが僕としては、気をつかったり、つまらないと感じる友だちと、仲良くしている意味は、何なのだろう? と、不思議になってしまう。

最初から話が合わない相手は問題外として、話が合っていた友だちなのに、だんだん合わなくなって気まずい…という状況は、誰しも経験すると思う。

その場合、僕は、迷わず捨てる。

それまでの過ごした時間とか、築いた友情に思い入れがあるので、できないという理屈も、わからないではない。

けど、ストレスを抱えてまで友だち付き合いする理由には、ならないんじゃないか?

その時間とか友情めいたものは、これから出会える、いまの価値観に合った友だちと築いていけば、いいだけのことではないか?

僕の考え方が一般的ではないことは、わかっている(おかしいとは思ってないが)。

けれど、同じ友だちと何年も、長ければ10年以上もずーっと仲良しでいる、というのは、相当稀ではないかと思うのだ。

長い付き合いの友だちが何十人もいる、と自慢げに言う人がいたら、僕は要注意だなと思う。

同じ価値観に固まって生きていて、思考も知識もバージョンアップしていない可能性が高いからだ

人間関係をリセットすることは、痛みをともなうこともある

人付き合いには、刺激の賞味期限みたいなものがある。 

仕事や人間関係、触れる情報によって、誰しも人生のステージは変わっていく。

その間に友人や趣味仲間の、刺激の賞味期限はすり減って、話が合わなくなっていくのは、ごく普通の現象だ。

時間が経てば、遊ぶ場所が変わり、食事をする場所も変わり、価値観も大きく変わっていくものだ。

そんなとき、いつまでも変わらない話をして、「あの頃はこうだったなー」と昔話をしてくる友だちは、どんな存在だろう。

心が安まる? なるほど、懐古心を温めるという意味では、いいところもあるかもしれない。

でも本当は、疎ましいのではないか?

過去の関係にしがみついて、前へ行こうとするのを邪魔する…とまでは言わないけど、「昔から変わらない同じ話」を繰り返す相手が、いまとこれからを前進していこうとする人生に、絶対必要だとは、どうしても思えないのだ。

子どもの頃から、ずっと仲良しの友人がいて、絶対に「捨てない」、一生大切にするんです、という人も多いだろう。

それはそれで結構。好きにしたらいい。

ただ僕は、価値観の変わらない、昔話をする友だちは、持ちたくない

同窓会とかで昔話が楽しい、という感覚は、まあわかる。

僕はほとんど同窓会の類いは行かないけど、「思い出す」ことに一種の快感があるのは、たしかだと思う。

でも、そんなもの何年かに1回でいいのでは? 毎年恒例とか、定期的にやる必要はないだろう。

僕はビジネスを始めて、見える世界のステージが、ハイスピードで変わっていった。

変わるごとに、出会った友だちや仕事仲間とは話が合わなくなり、「捨てて」きた。

思い切りがいいのではない。

どこか自分に課していた部分もあっただろう。

次のステージでうまくいかなくなったときに、以前のような交友関係に戻れる」という保険を、かけたくなかった。 

仕事で成功していくにつれて、人間関係のリセットを繰り返し、新しい刺激的な友だちをつくっていく。それが僕のスタイルだ。

人間関係をリセットすることは、痛みをともなうこともある。

オン・ザ・エッヂの創業メンバーが去ったときは、気持ちの上では完全に整理できていたけれど、心の奥の方では多少の痛みを感じたものだ。

「捨てる」痛みは、ゼロにはできない。 

しかし、痛みを感じないくらい忙しく、やりたいことに熱中していればいい。 

痛みがあるというのは、ヒマな証拠なのだ。

友だちをリセット―。

私にはできないという人もいるかもしれないが、そんなことはない。むしろ、いま大事にしている友だちや仕事仲間に、何かが縛られていないか? 見つめ直してみるといいと思う。

もしくは「捨てられたくない」と、必死にしがみついているのは、あなたの方なのかもしれない。

人は必ず噓をつくからそれを前提に付き合う

人間はどこまで信用できるのか?」 という問いに対しては、僕は素直に 「信用なんかできません」 と答える。

というと、ホリエモンは周囲に恵まれていないだとか、信用できる人と出会っていないだけとか、人情が薄い…などと言われる。

他人の意見は自由なので、気にならないが、ちょっと待ってほしいと思う。

僕は何も、人を信用することが無意味だとか、誰も信用するな、とは言っていない

僕にだって信用できる人は大勢いるし、ビジネスも友人関係も、根幹は信用だ。信用をないがしろにしているわけではない。

僕の言葉が足りないのかもしれないが、「信用なんかできません」というのは、「信用は絶対ではない」 という意味だ。

先にも述べたように、僕には仲間とか身内とかという考えがない。

極端に言うと数年来の付き合いの知り合いも、初対面の人も、ごくフラットに考えて接している。

親戚とか、血縁関係にある人も、別に特別ではない。「この人とはもういいや」という気持ちになったら、そこで関係は捨てるのだ。

たとえ長年の信用があったとしても、いらなくなったら、もういらない。
 
僕はどんな関係も、常に緊張した状態でいたいと思う。

緊張した関係であれば、進歩的な話ができるし、新しい出会いの機会も得やすくなる。

信用という言葉の持つ温かさ、癒やされ感に、とらわれてはいけない

大事なのは、いまと、これからだ。

信用する友人はいてもいい。けれど、自分の成長が阻まれたり、一緒にいる面白みが減っていっても、付き合う理由はあるだろうか?

信用が、関係をつなぎとめる絶対条件であってはならないと思う。それこそ不自由な縛りではないか。

信用を絶対化するのではなく、いまとこれからに思考を向け、いらなくなった関係は捨てていこう。

逆に、捨てられる側になったとしても、それはそれで仕方ない。決して恨んだりしないことだ。

「この人はいつまでも信用できる」という執着は捨てたほうがいい

そもそも信頼関係とは、何なのだろう?

相手を信じて頼ったとして、相手は結局、人間だ。

強いところもあれば弱いところもある。ときには自己保身で噓をついたりするだろう

白い部分と黒い部分が混在して、グラデーションになっている。それが人間だ。

100%真っ白の信用だけで埋められた人なんか、絶対にいるわけないのだ。

同様に、100%真っ黒だという人もいない。

僕を裏切った人たちは、きっと黒い部分が僕に対して、現れ出たのだろう。一度は僕と苦楽を共にしたのだから、彼らが白い部分を持ち合わせていることも知っている。

信用していたはずの相手でも、裏切るときは裏切る。 

それは善悪の問題ではなく、人間だから、当然なのだ。 

僕はふだん、しょっちゅう怒る。怒るけど、相手を恨んだりはしない。

移動中に失礼なことをされるとか実害があったときは、うぜえな! とTwitterなどで発散する。それでおしまい。後々まで引きずったりはしない。

長年の知り合いに裏切られたとしても、「ちょっと黒い部分の要素が多めの人だったなぁ」と思う程度で、受け流せる。

逆に、ひどい悪評で「あいつにだけは気をつけろ」と言われたような人でも、僕にとって白い部分が見えたら、「いいところもあるじゃん」と、良い印象を持って受け入れたりする。

人間付き合いの基本は、是々非々であるべきだ

信用できる、できないと縦割りで付き合いを振り分けするのは、おかしい。

こいつだけは俺を裏切らない」とか「この人は100%善人だ」と決めつけて、信用を預けきるのは、根本的に間違っている。

100%の信用が保証された人なんて、肉親でも存在するわけがないのだ。

いると信じているとしたら、人間観がおこがましいと言わざるを得ない。

人とは、どれほど複雑で多面的か、という想像力が欠けている。

僕は他人の噓は、いくら経験を積んだところで、見抜けないと考えている。

相手の心のなかは読み解けない。血を分けた親族でもだ。

人間関係のトラブルで「相手の気持ちを考えなさい!」とられる場合は多いと思うが、無茶な言い分だ。

相手の気持ちなんて、絶対にわからない。

本心がどこにあるかなんて、その人にしか、わからないのだ。

自分だって日々、考え方や感じ方は、いろんな要因を受けて変化している。常に同じ気持ちで接し合える信頼関係なんて幻想だ。
 
相手を意のままにしようというのも傲慢きわまりない。

他人とはわかり合えない、気持ちは通じ合えないと認識するところから、成熟した本物の人間関係が築いていけると、僕は考えている。

人は噓をつく。必ず。 

その噓つきの本質を前提に、付き合っていくしかない。 

諦めではない。この人はいつまでも信用できる、という根拠のない確信、ひいては「執着」を捨てることが、後々に大きな喪失を抱えないための最善策だ

モノや価値観を捨てることで、思考はアップデートできる

捨て本

捨て本

すべては、常識や価値観に縛られず、自由に生きるため

捨て本』には、そんな堀江さんの哲学が込められていました。

少しでも生きづらさを感じている人は、ぜひ同書を手に取ってみてください。きっと自分が捨てるべきモノが見つかるはずです。

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