ビジネスパーソンインタビュー
高卒でメジャー挑戦を表明した大谷翔平。苦悩の先に待っていた“18歳の決断”とは

佐々木 亨著『道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~』より

高卒でメジャー挑戦を表明した大谷翔平。苦悩の先に待っていた“18歳の決断”とは

新R25編集部

2021/07/30

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今年8月1日の時点で、メジャーでもトップレベルの37本塁打、打点82の成績を残し、投手の方でも実力が認められているエンゼルスの大谷翔平選手

オールスターゲームではファン投票でも選手間投票でも1位に選ばれたメジャーリーグ初の“二刀流”で挑んでいる大谷選手は、今一番話題と言ってもいいほどのプロ野球選手です。

実は、二刀流を始めたころは批判の声も多く上がっていました。

二刀流は体への負担が大きい

結果的に、どちらの才能も失ってしまう可能性がある

そんな声に対して、大谷選手は以下のように答えています。

自分がどこまでできるのか、人間としても、どこまで成長できるのか楽しみです。

二刀流を叶えたとき、そこには大きな価値があると思う

自分が成功すれば、同じように二刀流に挑戦する選手が続くと思いますし、いろんな可能性が広がるはずです

今はとにかく頑張って、新たな道を作れるような選手になりたいと思っています。

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

大谷選手がここまで野球で挑戦しつづけられる理由とは一体何なのでしょうか。

今回、大谷選手を高校時代から取材しつづけている佐々木亨さんの著書『道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~』(扶桑社刊)より、大谷選手の野球への想いを一部抜粋してお届けします。

読んだら、大谷選手のことをさらに応援したくなるはずです。

【佐々木 亨(ささき とおる)】1974年岩手県生まれ。スポーツライター。主に野球をフィールドに活動。大谷翔平選手の取材を花巻東高校時代の15歳から続ける。

「二刀流」の発端

花巻東高校はセンバツ出場を果たすことになるのだが、我慢の時期を過ごした。

怪我の功名と言うべきか。

大谷のバッティングの技量が飛躍的に伸びたのは、その時期だった。

佐々木監督(花巻東高校野球部の監督)は言う。

「怪我をした直後もそうでしたが、バッティングのときは痛みを感じないということで、冬はバッティング練習に費やす時間が多かった。

もともとバッティングの力を持っていたので、そのことがすべてではないと思いますが、冬のオフシーズンを経て大谷のバッティングは一気によくなりました

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

さらに、感慨深くこう続ける。

「大谷本人もそうだったと思いますが、その時点では『ピッチャー・大谷翔平』の意識しか私にはなかった。

もしかしたら、ピッチャーとして三年間、順当にいっていれば『バッター・大谷翔平』があそこまでのものになっていなかったかもしれない。

技術もそうですが、バッターに対する意識も含めて。

怪我をしたこと自体は決していいとは言えません。

ただ、本人の野球人生においては、あそこで怪我をしたことがその後の未来を変えたと言ってもいいかもしれません。

ピッチャーを意識するなかで、2012年のセンバツ大会前のバッティングを見たときは『こんなに打球が飛ぶのか』と思うぐらい、果てしなくボールを飛ばしていた。

あの期間の練習というのは『バッター・大谷翔平』の基礎をつくるには大事な期間だったと思います」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

怪我を乗り越え、多くの時間をバッティング練習に費やした高校二年から三年にかけての冬の時期がなければ、その後の「二刀流」はなかった――。

奇しくも、眠っていた才能を呼び覚まし、もともとの技術を進化させたそのオフシーズンがあったからこそ、投打における大谷の礎が築かれたと言っても言い過ぎではないと思う。

18歳の決断

高校野球を終えた大谷には、苦悩の日々が待っていた。

人生の岐路と言っては、あまりにも酷かもしれないが、それだけ重い、「18歳の決断」がそこにはあった。

2012年の9月19日。

高校三年生の大谷はプロ志望届を岩手県高野連に提出した。

プロ野球に進むべきか、それともメジャーへ挑戦するべきか。

二者択一の選択を続けていた大谷は、10月に入っても答えを出せずに悩んでいた。

その答えを導き出せずに複雑な思いが交錯していた10月中旬のことだ。

その数日後の10月21日、大谷は「最初(高校卒業後すぐ)から行きたい夢がある」と言い、自らの意思のもとで揺れ動く心を一度は止めた。

大谷メジャー挑戦」の大見出しとともに、各スポーツ紙が大谷の決断を報じたのはドラフト会議の四日前のことだった。

ドラフト1位候補と呼ばれる日本の高校生が、プロ野球を経由せずにメジャー球団と契約した前例はなく、大谷の“最初の決断”は大きな反響を呼んだ。

しかし、事態は急変する。

10月25日のプロ野球ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズが大谷を単独1位指名したことで状況は複雑化を極めた。

指名直後、18歳の大谷はこう語ったものだ。

「(メジャー挑戦を)一度決断した以上は、アメリカで頑張ろうと思っていましたし、どこに指名されても自分の意思だけはしっかりと持っていようと思っていたので、今はアメリカでやりたい気持ちしかありません」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

日本ハム入りの可能性を報道陣に訊かれると、そのパーセンテージは「ゼロ」と言った。

淀みない口調で、入団する意思がないことを伝えた。

誰も歩いたことのない「二刀流」への道

ドラフト会議から約一カ月半が過ぎた2012年12月9日。

その日、大谷は日本ハムへの入団を決めた。

道なき道をかき分けるかのように突き進み、可能性「ゼロ」からの決断だ。

大谷は当時の心境をこう語る。

「指名されたあとも、メジャーでやってみたいという気持ちが強かったですし、(日本ハムへは)行かないだろうと思っていました。

ただ、何回も岩手県に来てもらって、何回も話をさせてもらって、(日本ハムで)やってみたいなという気持ちが強くなっていった

球団としての熱意、栗山監督の熱意も伝わりましたし、交渉を数回重ねていくなかで、ここ(日本ハム)で自分を追い込んでいきたいと思うようになっていきました」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

メジャーへの思いを一度封印し、日本国内でプレイすることを決めたときの記憶は、大谷のなかではおぼろげだ。

「考えがパッとすり替わったわけではないですね。

ある瞬間に『行く』と決めたということではなくて、そういうふうに動いていったということじゃないですかね」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

大谷は悩み続けた。

何度となく自問自答した。

その過程で徐々に新たな思考が生まれ、そして最後は自分の意思で答えを出した。

最終的には良い判断ができたと今では思っていますし、今でも野球ができていることを考えたら、あのときの決断はよかったんじゃないかなと思いたい部分があります

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

日本ハムと交渉を続けた長い期間、大谷が多くの言葉を交わし、ありのままの自分の思いを伝えたのが家族だった。

息子の最終決断を家族はこう考える。

父の徹さんは言う。

「やりたいようにやってほしい。行きたいところに行ってほしい。

ずっとそう考えていました。

あとになって『あの時…』と後悔することが一番いけないことなので、はじめから『自分の好きにしていいよ』と言っていました。

決断の決め手は…やっぱり、体的にも精神的にもまだまだなところがあって、あのときは『(アメリカは)今、行くべきではない』と本人が気づいたというか、そういう判断をしたんだと思います

日本で経験を積んでトレーニングを積んでアメリカへ行ったほうがいい、と。

栗山監督や球団の方々は、チームのためというよりは、翔平のためにこうしたほうがいい、ああしたほうがいい、一緒に頑張っていこうと訴えてくれたので、その気持ちは伝わったと思います」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

そして、母の加代子さんが言葉を加える。

「あとは『二刀流』ですかね。

他人とは違う、誰もやったことがないことを日本でもできるのか、と。

そこには大きな魅力を感じたと思います。

今だから言うわけではありませんが、韓国での世界野球選手権大会から戻ってきたときに、その先の進路について翔平と少し話をしたことがありました。

そのときに、翔平は投げることも、打つことも好きな子なので、私は『プロに入って両方やらせてもらえないのかね?』と何も考えずに言ったことがありました。

翔平は『まさかそんなの無理でしょ』みたいに言っていましたけど。

私も『そうだよね』と笑って返したんですけど、そのあとに日本ハムの二刀流の話を聞いて、私はどこかで嬉しさを感じていました。

翔平のなかにもきっと『やらせてもらえるのかな』という、嬉しさがあったと思います」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

大渕は、入団を決断させた最大の理由は「本人に聞かないとわかりませんが…」と前置きした上で、大谷と自分自身の思考を重ね合わせる。

「おそらく、彼のなかで道が見えたのかなあと思います。

自分の目指すべき道が見えたから、じゃあこっちの道で行こう、と。

そう思えたんじゃないですかね」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

大谷にとってのそれは、プロの世界で投手として打者として、ともに技術を高めて互いの最高のパフォーマンスを見せる「二刀流」の道だった。

大谷は、淀みのない声ではっきりと言うのだ。

「投手と打者の二つをやらせてもらえるというのは、僕にはない画期的なアイディアでした。

それは大きかったと思いますね。

僕としては、まったく違う道を選んだという感じです。

あのとき、もしもアメリカに行っていたら、おそらくバッティングのほうはやっていなかったでしょうし」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

交渉の過程で球団側が二刀流という言葉を初めて使ったのは、栗山監督が加わった交渉の席でのことだったと大渕は記憶している。

「大谷は交渉のときにまったく表情を出さないんです。

そこがすごく大人というか。

感情を見せてくれなかったので、次の一手というのがなかなか難しかった。

何が正しいのかわからない状態で進んでいったので、二刀流という言葉を出したときも、ちょっと反応があったぐらいだったと思いますけど」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

だが、山田だけは大谷が二刀流に少しだけ反応を見せた瞬間をよく覚えている。

「三回目の交渉のときでしたかね、二刀流の話をしたのは。

大谷は『そんなのもあるのかな』という程度で少しクスッと笑いながら話を聞いていたのを覚えています」

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

多くの人に指示される理由が分かる一冊

同書で大谷翔平さんは以下のように語っています。

野球に関しては、それがとてつもなく楽しかったので、今まで続いているんでしょうね。

算数が好きで得意だったら、数学者になればいいんです。

僕の場合は、たまたま野球だったんです。

道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~

“野球が好き”、大谷選手が活躍する根源はココにあるのだと感じます。

著者の佐々木さんが長年のおこなった丁寧な取材から見えてくる大谷選手の素顔。

『道ひらく、海わたる』は“人としての大谷翔平”さんの魅力に気付かされる上に、その挑戦しつづけるその姿勢が私達に勇気をくれます

野球ファンやスポーツをしている方のみならず、多くの人にぜひ読んでほしい一冊です。

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