人は距離が詰まりすぎると、攻撃的になる
【1万字公開】家族と「ファミリー」の違いとは? 青木真也『距離思考 曖昧な関係で生きる方法』
新R25編集部
目次
- 「これからの時代は“ファミリー”が必要だ」青木真也が実践する新しい人間関係のあり方
- 「こうあるべき」の枠組みはしんどい。“ファミリー”が必要だと感じたきっかけ
- ゆるやかな関係を築ける「ファミリー」のメリット
- ファミリーに出会うには、「高さ」と「深さ」を身につけろ
- 「最大限のパフォーマンスをするには、孤独・緊張・恐怖が必要」青木真也が人と群れるのを恐れない理由
- 群れずにいると、自分の「ものさし」ができる
- 自分の価値観や「ものさし」ができると、失敗の解釈が変わる
- 孤独な時間は「緊張感」と「恐怖」を味方につけられる
- オリジナリティあるコンテンツを作りたければ孤独を愛そう
- 人間関係のトラブルは、すべて“距離感”を見誤っていることが原因だ
- 勝負に勝ちたければ、正しい距離感を把握しよう
- 人間関係で悩むのは、すべて距離感が間違っているから
- 尊重しあえる関係を続けるために、距離を忘れない
- 「勝負に弱い人は、恥をかけない人」格闘家が語るブレないメンタルを保つ考え方
- 「書く」ことは自己救済だ
- 「失うものを持たない」人はどんな勝負でも勝てる
- 最後は、どんなときも「自分を信じること」
- 人間関係に悩んだときに手に取りたい一冊
コロナウイルス感染症の影響で、人との関わり方について改めて考えた人も多いのではないでしょうか。
総合格闘家・青木真也さんの新刊『距離思考 曖昧な関係で生きる方法』では、時代が激変するなか、会社や家族、恋人などの人間関係の常識もアップデートしていきたいとつづられています。
青木さん自身、周りの人と距離を取り、必要なときにつながれる“ファミリー”という関係を作ることで、自分らしく自由に生きられるようになったと言います。
「人とのつながりはもっと曖昧でいい」と話す青木さん。
今回は、特別に新しい人間関係の在り方についてつづった部分を抜粋してお届けします!
「これからの時代は“ファミリー”が必要だ」青木真也が実践する新しい人間関係のあり方
「こうあるべき」の枠組みはしんどい。“ファミリー”が必要だと感じたきっかけ
家族とはこうあるべきだーー。
家族と一緒に暮らしていたとき、僕は自分の中に刷り込まれたそんな考え方にうんざりしていた。
同じように感じている人は案外多いんじゃないか。
家庭生活を円満に維持するには、結婚して夫婦になって、共に暮らすことが当たり前だとされる。
いや、当たり前というよりも、少なくともそんなふうに思い込まされる。
でも、その在り方が本当の意味で僕たちを幸せにしているのだろうか。
僕は義理の母や妻の親族との折り合いがとても悪かった。中でも義母とはとくに上手く関係を築けなかった。
その理由はいくつかある。
僕は親族との付き合いが面倒で、意味がないものと捉えていた。
多くの人は親戚付き合いをつまらないなと思っても、「年に1、2度のイベントごとだから仕方ない。参加するか」となっているのではないか。
でも、僕は自分が「無意味」だと思ったことはやれない性分だ。
結婚してしばらくしてから、親族との集まりに僕は顔を出さなくなった。
そのことをよく思っていなかったようだし、それに対して僕が持論を展開しようものなら、「お前は物事を損得で考えすぎる。最低なヤツだ」とますます怒られる始末…。
家庭でも、その単位をもう少し大きくした親族の中にいても、散々ダメ出しの連続で、感覚の合わなさに僕は本当に苦しんだ。
感性の違いすぎる相手と親族になるのはきつい。
問題を解決に持っていこうとしても、議論すら成立しなかったから、僕は彼らとの対話から逃げた。
いつも距離感が近い家族に対しては、距離が詰まりすぎているせいで甘えが出て、結果的に攻撃し合ってしまう。
僕は家族と生きてみて、距離感を保つこと、つまり「距離思考」の重要性を実感した。
さらに、結婚するとほぼもれなく付いてくる親族との関係も面倒だし、感覚が合わなければとことん厄介だということも、改めてよくわかった。
話し合いができないのはしんどい。
同居する家族、親族たちとの関係性に苦悩した僕は、ゆるやかな関係性を求めるようになっていった。
それが「ファミリー」への傾倒の始まりだ。
ゆるやかな関係を築ける「ファミリー」のメリット
一般的な家族とファミリーの意味合いは異なる。
いつも一緒にベタベタしているような関係でもない。
コミュニティへの出入りは自由だし、会いたくないときは距離を置けばいいし、 同居だってする必要がない。
自分が好きなようにかかわり方を調整することができる。
一定の距離感を保つことができて、言葉は悪いかもしれないけど、お互いにとって都合のいいときにだけ会えるファミリーの居心地のよさといったらない。
ここで言う「都合のいいとき」というのは、助けてほしいとき、助けてあげたいときだ。
僕がたびたび口にする「おれたちはファミリーだ」には「助け合い」の思想が詰まっている。
みんな「助けてもらおう」とだけするけれど、それじゃいけない。そもそも自分から人助けをしないと、自分には返ってこないから。
例えば、僕の試合でセコンドについてもらうこともある宇野薫選手。
彼が試合に出るときは僕もセコンドとして全力でサポートするし、彼の展開するブランドの露出には喜んで協力する。
名前は出せないけれど、あるとき、事業の資金繰りに困ったファミリーがいて、僕はその人に「もし何かあったらお金の面倒を見るから」と伝えた。
現時点で、困窮しているファミリーに具体的な救いの手を差し伸べたことはないけれど、日頃から「困ったときはいつでも意思表示してほしい。助けるから」と伝えているから、お互いに安心感があって、行き詰まることはない。
落ちる前にヘルプを出せる関係性を維持している。
僕たちは誰もが皆、少しずつ欠落している。完璧な人間なんていない。
欠落している人同士が必要なときに支え合えたら、みんなが笑顔で生きていけると思う。
家族というつながりを信じすぎる必要はない。
僕のようにファミリーというつながり方が合っている人だっているのだから。
ファミリーとかかわることで、僕の「自由な孤独」は成り立っていると言えるし、人生で何より大事にしている「自由であること」を謳歌できている。
結婚制度や家制度、会社組織などに縛られれば、その数だけ制約は膨らむ。
どこかに所属することの安心感はあるのかもしれないけど、ゆるやかで広いつながりのほうが、何より自由でいられる。
寂しさを感じたときでも、ファミリーという寄る辺があることは心強い。
孤独でいるか、誰かとつるむか。どうもその二者択一になりがちだけど、人はつながりなくしては生きられない生き物だ。
ベースは孤独であることを求めていても、並行してファミリーのようなゆるやかなつながりを持つことができれば、自分だけの自由は確保できるのだ。
ファミリーに出会うには、「高さ」と「深さ」を身につけろ
僕はファミリーについての出会いをこう考えている。
自分のやりたいことをやり続けて、「高さ」と「深さ」を身につければ、自分に合うファミリーと互いに惹かれ合うときが必ずやって来る。
ここでいう高さとは、突き抜けた専門性のことだ。
僕で言うなら格闘技選手として日々研鑽し、技術を深め、実績を残すということだろう。
深さとは傷ついたり、病んだりした度合いである。
僕の場合、負けが込んだり、夫婦仲が険悪になって別居に追い込まれたりして、心身共にぐちゃぐちゃになったとき、自分の深さが作られたと思っている。
誰もが高さよりも、専門性を横展開できる「広さ」を求めようとしがちだけど、それは違う。
高さがない広さは薄っぺらいし、自慢されても迷惑なだけだ。
高さは自分の専門分野にコツコツ向き合っていたらできるけれど、深さはそれだけでは生み出せない。
深さにつながるのは、一生懸命やったけれど上手くいかなかった、思い通りにいかなかった負の経験だ。
落ちる経験をした人でないと、落ちる苦しみがわからないし、一度、いや何度か落ちたからこそ、山と谷が強調されて人生が際立ってくる。
僕は「一回やらかしている人は信用できる」と考えるタイプでもあって、だから落ちた経験を持つファミリーが周りに多く集まってくるのかもしれない。
自分にとって必要な相手、自分が求める相手とは互いに惹かれ合うもの。
だから、ファミリーを無理に見つけようとする必要はない。高さと深さを研ぎ澄ませるところから始めればいい。
「最大限のパフォーマンスをするには、孤独・緊張・恐怖が必要」青木真也が人と群れるのを恐れない理由
群れずにいると、自分の「ものさし」ができる
「群れないこと」を僕は常に意識している。
とくに同業者である格闘技選手とはプライベートで付き合うことはまずない。
一緒に練習することはあるけれど、 練習後やプライベートの時間に連れ立って食事に行く間柄だとはまったく思っていない。
群れない理由は、自分の価値観や「ものさし」を大事にしたいからだ。
群れずに自分軸で生きていると、他と自分の違いを意識するようになって、結果的に唯一無二の存在になれると僕は考える。
世間体を理由に何か行動に移すことを躊躇したり、我慢を強いられながら生きていかねばならない人は、案外少なくはない。
むしろ大半なのかもしれないとさえ思う。
それはつまり、社会に流されっぱなしになって、本来求めるべき自分の幸せを二の次にしてしまって苦しんでいるのではないだろうか。
「裕福」は他人から見たものであるが、「幸福」は自分の中にしか存在しない。
他人様の価値感に合わせていても、自分にとっての幸福を感じることはない。
だからこそ、自分の「ものさし」を持つことが大事になってくる。
自分の価値観や「ものさし」ができると、失敗の解釈が変わる
人と群れていると、集団心理が働いて恐怖心がかき消されることはないだろうか。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」なんていう昔のお笑いの言葉にもあるように、危険を前にしているはずなのに、なぜか「みんなと同じように動いていれば大丈夫だろう」「みんなと同じことをしていれば大変なことにはならないだろう」と錯覚することがある。
僕は「今みんながやっている方法」を何の疑いもなく「いい」と思い込んで、「みんながやっているから安心だ」という理由で、それを取り入れることはない。
周囲と必要以上に距離を詰めずに、情報を広く深く集めながら「自分に合うかどうか」を冷静に考えるのだ。
もちろん、迷うことはある。今だっていろんなことに迷い続けている。
でも、世間や周りからの影響を受けず、自分の頭で考えて決めたことだけを「正しい」と信じて、僕は生きていくのだ。
僕のような格闘技選手の場合、自分の選択や決定を日々一つひとつ積み重ねて、最終的には試合の勝敗というかたちで結果が出る。
でも、それは「そのときの結果」でしかない。勝敗の解釈とはその後の行動で変えられるものだ。
たとえ試合で負けたとしても、もしくは失敗したとしても、自分なりのベストを尽くして生きてさえいれば、失敗という出来事の解釈は変わっていく。
だから僕は群れずに、自分の価値観やものさしを磨き抜いて、それに基づいた行動をし続けたい。
それが結果的に青木真也らしい生き方を貫くことにつながるからだ。
孤独な時間は「緊張感」と「恐怖」を味方につけられる
本業である格闘技にも、孤独は良い影響をもたらしてくれる。
あえて、ひとりで過ごすことを選択して、孤独を深めていくうちに、緊張感がいい塩梅で高まっていくのだ。
リングに上がるとき、心がふわふわと浮ついた状態であってはいけない。
そこに緊張感が欠けると良い表現はできないし、ケガやそれ以上のことにもつながる危険が高まる。
そうした緊張感と併せて抱くのは恐怖感だ。
怯える気持ちがない人間は細部が粗くなる。細かいところまで意識できなくなるのだ。
対戦相手や試合することを「怖い」と感じられる人間は、必然的に動きが慎重になる。
試合前に緊張感も恐怖感も一切持てなくなっていたら、そろそろ格闘技の第一線の舞台からは外れたほうがいい時期ということだ。
僕は意識的に孤独になる時間を確保して、緊張感と恐怖感をバランスよく保つことを、むしろ楽しんでいる。
試合でも練習でもトレーニングでも、その考え方は変わらない。
宇野薫さんの試合でセコンドにつくときも、リング上の選手の緊張感と恐怖感がアンバランスにならないよう、声を掛けたりするなどしている。
現役選手として最良の表現をするために、緊張感と恐怖感は必要だし、それを醸成するためにも孤独になることを恐れてはいけない。
オリジナリティあるコンテンツを作りたければ孤独を愛そう
僕は常々、表現者(言い方を変えれば、何かを見せる人間、ものづくりをする人間)には、孤独を嚙み締める時間が必要だと思っている。
格闘技を含めて、 何かを表現することは、自分ととことん向き合う作業であるからだ。
孤独になるのが嫌なら人と群れればいいのだけれど、群れた先には何もない。
一方で、孤独なひとときは自分自身と平穏に向き合う時間を確保できる。
人と深く付き合うと、どうしても自分と他者は異なる者同士だから、大なり小なりトラブルが生じるのは避けられない。
孤独であれば人間関係の問題が起きることはまずない。
孤独を深めていく中で、僕は今まで以上に言葉を大事にするようになった。
自分が言葉を発するときも、誰かの言葉を受け取るときも、そのニュアンスを気にする。
以前出演した『格闘代理戦争』(AbemaTVで配信されている格闘ドキュメンタリー番組)でも、そのこだわりを前面に出したつもりだ。
自分が支援していた選手に「頑張ったね」ではなく、これまでの過程を称える意味で「頑張ってきたね」と伝えた。
「~した」と「~してきた」とでは、 見ているところも意味合いもまったく変わってくる。
言葉で伝えるコンテンツを作りたいという思いはもともと強かったけれど、 孤独になって自分と対話するうちに、その傾向が顕著になってきた。
もともと僕はプロレスラーが発する言葉に憧れて、この業界に入ってきた。
スポーツのパフォーマンスに憧れて入ってくる人が大半だけど、僕はそのタイプではない。
かつて武藤敬司さんはケガからの復帰戦でこう発言している。
「リングが冷たく感じた」
僕は当時それをテレビで見ていて、「こんな表現があるのか!」と驚いたのを覚えている。
プロレスラーは言葉を持っているが、言葉だけですべてを説明しようとしない。
それが僕には美しいものとして映る。
孤独を研ぎ澄ます時間は、誰にとっても必要である。
孤独を経験することで、 自分との対話が深まり、オリジナリティのある言葉、ひいてはコンテンツを生み出すことができるものだ。
人間関係のトラブルは、すべて“距離感”を見誤っていることが原因だ
勝負に勝ちたければ、正しい距離感を把握しよう
格闘技では、相手との距離感(間合い)をいかに正しく把握するかで、勝ち負けが決まると言っても過言ではない。
基本的に攻撃し合う競技だから、相手からの攻撃を受けないことが大事だ。
だから、僕はリングの上で相手と対峙したとき、一定の距離感を必ず保ち続けている。
後進の選手や格闘技クラスの生徒に僕が格闘技を教えるとき、ポイントのひとつとしているのが、相手との「距離感の保ち方」で、こう説明している。
「ゆっくり、近く」
この概念を意識していない格闘技選手は少なくないと思う。相手を倒して勝ちたいと思うほど、相手との距離をどうしても詰めたくなるからだ。
相手との距離を縮めるのはハイリスク・ハイリターンな行為だ。
確かに、相手を打撃しやすくはなるけれど、同時に自分も相手の打撃を受けやすくなり、 ダメージを負う可能性も高くなる。
できる限り、リスクは背負わない。
勝負師としてリングに上がる立場だからこそ、負けの可能性を高める要素は極力排除する。
だから勝負の世界で生きていても、僕はふだんから賭け事、ギャンブルの類は一切しない。
ギャンブルの本質は「大金を持っていて、それを賭けることのできるヤツが勝つ」ということだ。
言い換えれば、大金を持っていない大半の人間は、賭ける資格もないし、勝つ可能性も少ない。というか、負ける。
格闘技においても、この考え方に変わりはない。
試合中、ハイリスクになる行為はしない。リスクは最小限に抑え、適切なリターンを取りにいくことにしている。
後進の選手を指導する際、繰り返し言っているのは、「練習と試合では相手との距離感を変えろ」ということだ。
練習は相手を潰すつもりで攻める場ではないから、距離感は自然と近くなる。
でも、練習で慣れた距離感を、そのまま試合に持ち込んではならない。
試合では相手との距離感を最初に「やや遠め」に設定し、あとからじわじわと距離を詰めていけという教え方をしている。
基本的には警戒心を持って、攻撃を受けることを見越した上で、遠めから少しずつ近づいていく。つまり「ゆっくり、近く」迫っていく。
その過程で、相手と自分との適切な距離感を調整しながら把握していけばいい。
自分が戦いやすい距離感を理解し、それを常に維持できる人が格闘技では強者になれる。
自分にとって最適な距離感を知り、自分の攻撃が届きやすく、かつ相手の攻撃を受けづらいところで戦うことが大事なのだ。
人間関係で悩むのは、すべて距離感が間違っているから
人間関係でも「ゆっくり、近く」理論は当てはまる。
仕事でもプライベートでも、人との関係でストレスを溜めたり、何か間違えてしまったりするのはすべて、相手との距離感を見誤ることが原因だ。
例えば、自分が好意を持った相手から「鬱陶しい」「怖い」などと思われるのも、逆に自分に好意を持った相手に対してそんな感情を抱くときも同様だ。
僕の経験上、相手との距離感を詰めすぎると、ろくなことにならない。
揉め事が起きやすくなる。
それぞれが心地よいと感じる距離を飛び越えて、間合いが近くなると、やっぱり違和感をおぼえるし、気持ちいいとは思えなくなる。
だから、無駄に傷つけ合うことにもつながる。
そんなふうに偉そうなことを僕が言うのもちょっとおこがましいのだが、これも、人間関係における距離感を幾度となく間違えてきた経験からの、反省であり学びだ。
人に見られる商売をしていることもあって、「青木さんと友達になりたいです」「仲良くなりたいです」と近寄ってくる人は多い。
会ったこともない、またはこっちは相手のことをまったく知らないのに。
SNSで友達申請がきたり、 「一度お会いしてお話ししてみたいです」といった連絡はよくある。
彼らは僕の表面的な部分しか見ていない。
「格闘技選手として活躍する青木真也だから」近寄ってきているだけだ。
そもそも、距離が近くなることは、楽しいことばかりではないということがわかっていないのだろう。
「友達になる」「仲良くなる」ことの意味を本当に理解しているのか?と問いたくなる。
人との距離感をわからずに近寄ってくる人のことが、僕には理解できない。
僕にはそういう無遠慮な行動ができないからだ。
もし、有名人とかかわる機会があったとしても、そこで「友達になってください」とか「連絡先を交換してください」なんて自分からは絶対に言えない。
僕には「格」を意識してしまうクセがあるし、そもそも「(自分はそれに見合う)顔じゃない」と考えてしまうし、「俺ごときがここででしゃばったらいけない」と自制する性分だからだ。
スマホやSNSが普及して、写真だって思いついたらすぐに撮れるようになった時代だけど、目の前に現れた人にいきなり「一緒に写真撮ってください」 なんて、さすがに失礼じゃないか。
撮影に応じてもらうということは、相手の時間を奪ってしまうことだ。
それをまったく考えずに、どんな状況でも「一緒に写真撮ってください」と言える人がいるけれど、彼らは他者への配慮がないのだろう
そんな人たちとは特に距離を取りたい。
尊重しあえる関係を続けるために、距離を忘れない
人を好きになると「ずっと好きでいるんだろうな」「この関係は変わらない」 と、永遠を感じたくもなる。
過去にそれで何回も失敗してきたにもかかわらず、 必要以上に距離を詰めてしまって、関係が上手くいかなくなって後悔する。そんなことを繰り返してきた。
ただ、人を好きになったときに抱くすべての感情が、人生を豊かにしてくれることは間違いない。
人との間で距離感を間違えてしまうのは、換言すれば人間味があることでもあり、決して悪いことではないと思う。
もちろん、自分と相手にとって最適な距離感を理解して、お互いを尊重し合える心地よい関係性を築くことが理想的ではあるけれど。
「勝負に弱い人は、恥をかけない人」格闘家が語るブレないメンタルを保つ考え方
「書く」ことは自己救済だ
メンタルの弱さを自覚している。
この世で僕が一番つらい、と言っては言いすぎだけど、これで割とけっこうキツイ立場にいるんじゃないかと思っている。
いつも自分に「生きろ!」と言い聞かせているくらいだから。
生きていくことはつらいことの連続だけど、基本的に親より先に死ぬわけにはいかない。
自分が生きたくないからといって死ねるわけじゃない。仕方ねえなと思いながら生きている。
格闘技、執筆などの表現活動を通じて自己肯定して、無理やりにでも生き抜いて、日々なんとか前に進んでいるのが、僕の現状だ。
不安定なメンタルを整えるために、表現活動をしていると言ってもいいかもしれない。
坂口安吾が遺した言葉「あちらこちら命がけ」を地で行っている。
自分の信念を貫きながら、不器用に生きている。
とくに僕は文章を書く時間を大事にしている。書くことは自己救済だ。
自分の身に起きたこと、失敗したことも包み隠さず書く。家
族と別居したことも、 離婚に向かっていることも、恋愛のことも、セックスのことも…自分の人生にまつわるあらゆることを発信している。
噓を書いているつもりはないけれど、自分視点で書く中で自然と「自分にとって都合の良い書き方」になっていく。
でも、これはある意味、自分のいいところを見つけられるというメリットでもある。
日本では、自分の良くないところを見つめ直そうとする「反省文化」が根づいているけれど、反省会なんてゴミみたいなものだ。
あれがダメだった、これが良くなかった…って、終わったあとにゴチャゴチャ言う時間を設けて何になるんだろう?
ダメ出しよりも自己肯定のための行動をしたほうが、遥かに建設的だ。
だから、何でもいい。
日々の記録やモヤモヤしていることを文章にしてみること。 溜め込んだものを出してみることだ。
ブロガーで作家のはあちゅうさんは「人生全部コンテンツ」をモットーに、 日常のあらゆることをネタにして発信している。
子どものこと、夫のこと、育児のこと、何もかもさらけ出す。
僕も彼女に近い考えだ。何が起きても、その起きてしまったことを転がして、“商品”にする。
「LIFE IS CONTENTS」の発想である。
彼女のSNSは幾度となく炎上しているけれど、それを補って余りある自己救済、自己肯定というメリットがあるんじゃないかと思う。だから僕も書くことをやめられない。
そんな考え方はアントニオ猪木さんとも似ている。
以前、猪木さんの女性スキャンダルが週刊誌に掲載された。そこにはカメラから顔を背ける猪木さんの写真があった。
のちに猪木さんは「なぜ俺はここで顔を背けたんだ!」と愕然としたらしい。
反応するの、そこかよ とツッコミたくなったが、これも何が起ころうとも「生き様イズコンテンツ」な猪木さんを象徴する話だ。
いいところやスマートなところしか見せられない人は、誰の心も動かすことができない。
文章を書くことに慣れてきた今、転んだ経験すらコンテンツになるのだと実感している。
「失うものを持たない」人はどんな勝負でも勝てる
人は勝負に強い人と弱い人に分かれる。
勝負に弱い人はわかりやすくて、人前で恥をかくのを嫌がるものだ。
開き直れないという特徴もある。
格闘技における勝負弱い選手となると、もうひとつ大きな要素がある。
そういうヤツらは「勝負師」の顔を持っていない。
あくまで自分はいちアスリートであり、いち格闘技選手だと自身のことを考えている。
一方、勝負に強い人はとことん勝負師的思考を貫いている。自分が勝負師として生きていることを強く意識しているのだ。
勝つためには、目の前の戦いを楽しみながら、諦めず、しつこく、粘り強く 向き合う。
勝負強い格闘技選手を見ていると、良い意味で「諦めが悪い」ことが伝わってくる。
勝負というのは、たとえ劣勢に追い込まれても、本人が諦めるまでは負けじゃない。たとえ勝つ可能性が1%しかないとしても、それをどう受け止めているか。
「100回に1回は勝つということ。その1回勝てばいい」
そんなマインドセットができる人間は、たとえ一度きりの本番でも強さを発揮できる。
逆に「100回に1回しか勝てないのか。だとしたら、次の勝負で勝つのは無理に等しいんじゃないか」と考えてしまうようでは、絶対に勝てない。
勝負師の頭には「負ける自分」の姿はない。
世の中で一番強いのは、文字通り「無敵な人」。
無敵とは、言葉を変えると「失うものを持たない」人だ。
失うものがない人間は何だってできる。
背負うものがないからこそ、自分の思うがままに動ける。
「そんなの知らねえよ」というマインドで開き直れる人間こそ最強だ。
最後は、どんなときも「自分を信じること」
僕は試合が怖い。試合が決まる前から恐怖感を抱えて生活を続けている。
その恐怖感は、試合まで何日あるのかによって変わってくるけれど、その日が迫ってくるほどに高まってくる。
恐怖感の中身を自分なりに分析してみると、大きく3種類に分かれる。
1つ目は、メンツが潰れる恐怖。
自分が負けるということもそうだけど、負けて何かを失うことが怖い。これは格闘技選手の誰もが持っている怖さだろう。
とくに「自分に注目が集まっているのに負けてしまう」という状況を想像するとなおさら怖くなる。
2つ目は、物理的に傷つけられる恐怖。
格闘技の試合はケガは付き物だし、運が悪ければもっと危険な状況に陥ったりする可能性もある。
これが、本能に訴えかけてくる類の一番強烈な怖さだと思う。
3つ目は「実力が出せなかったらどうしよう」という不安が混じった恐怖。
試合が決まってからは、これらの恐怖が3本立てで攻めてくる。常に追い詰められた状態になる。
試合本番が刻々と近づいてくる中で、恐怖にとらわれた僕は、こんなことをよく考えてしまう。
規定体重まで落として、計量をクリアしなければ試合には出られない。じゃあ、逆に規定体重まで落とさなければ、試合をしなくても良くなるのでは…。
そんな気持ちに苛まれても、逃げるわけにはいかない。
試合は怖いけど、試合をしたいという思いは強く持っている。
試合当日を迎えた僕は、試合会場に入るまでは音楽を聴くこともあるけれど、それ以降は自分の世界に没入している。
その時点で恐怖の“量”はまったく減る気配を見せない。
しかし僕は、そんなときだからこそ、自分に対してポジティブな話をする。自分を騙せるのは自分しかいないからだ。
「今までこれだけのことをやってきたんだ」 「毎日コツコツ練習してきたじゃないか」 そう自分自身に語りかける。
だから大丈夫なんだ、と。
これをやっていると、恐怖心を抱えていても、過剰な恐怖を感じない領域まで集中力を研ぎ澄ますことができる。
人間関係に悩んだときに手に取りたい一冊
「近すぎるから人は相手に甘え、攻撃的になる」
「ゆるやかで広いつながりのほうが、自由でいられる」
青木さんの言葉の数々に、人との付き合いがぐっと楽になるように感じる一冊。
人との距離感に悩んでいる方、ひとりの時間が好きな方におすすめです。
同書を読んで、自分が「心地いい」と感じる関係性を作っていきましょう!
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